「本物」はどこにあるのか――『Cargo Tokyo-Yokohama』評  [堀切克洋氏]

 私が小学生の頃、社会のテストで「加工貿易」と回答する問題がやたら多かったのを思い出す。(日本は資源が取れないから)資源を「加工」して、それを輸出して外貨を稼がなければいけない。そのような「世界のしくみ」をまだ右も左もわからぬ子どもに教え込むにはうってつけの用語、それが「加工貿易」であった。大型の油田や天然ガス田が発見されたというニュースはこれまでのところ報道されていないから、おそらく、現在も「加工貿易」は、小学生の社会科の必修ワードの一つなのだろう。

 しかしながら、資源が「文化」である場合、そういうわけにはいかない。文化はすでに無数のコンテクストを含んでいるため、マニュアルに沿って「加工」するわけにはいかないからである。加工するにしても、そこにまたべつの文化的文脈が発生してしまう。たとえば、戯曲を「翻訳」する場合、「おおまかな意味」や「物語の展開」を伝えることはできても、「微妙なニュアンス」や「文化的な背景」を伝えるのは難しい。「翻訳=加工できないもの」、それは「文化」のかなりの部分を占めているものだ。

 舞台芸術の場合、その最たるものが「身体」である。身体は「加工」できない。一方では、このような限界が「演技」の欲望へとわたしたちを駆り立てる原動力であるのは確かだが、しかしこの身体はさまざまな意味作用やノイズをすでに含んでいる。日本人がドイツ人の役を演じようとすれば、これは一から十まで「再現」というわけにはいかない。「寸法があわない」のである。ことばの上で起こった困難が、もっと直接的に、身体の上で生じてしまう。

 だから実質的に、文化における「加工」とは、以上のような困難と向き合いながら、「寸法をあわせる」ことにほかならない。前口上が少し長くなってしまったが、このような観点から見るとき、今回の『Cargo Tokyo-Yokohama』は、いろいろな点で「寸法があっていなかった」ように思われる。この公演の理論的なベースとなっているテクストにせよ、あるいは物理的なベースとなっているトラックにせよ、「身の丈にあった」ものではなかったのではあるまいか。

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 まず、トラックから話をはじめよう。公演の冒頭に、ドライバーから「注意点」として言い渡されたように、このトラックは「ヨーロッパ規格」であるため、本当ならば日本国の車道を通行してはならないものだった。公演の「劇場」でもあり、同時に「身体」でもあるようなこのトラックは、国土交通省の理解もあって、ヨーロッパでの公演とまったく同じものが使用されることになったのである。このことが意味するのは、「本物」の劇場=身体を見せるために、法律に例外を認めさせたという事実である。

 だが、日本の法律という「身の丈」に寸法をあわせた規格のトラックを使用するという手はなかったのだろうか。誤解なきように申し添えておくが、わたしはここで「法律に穴をあけたこと」を責め立てているのではない。あえて問うてみたいのは、「法律に穴をあけて」まで同一のトラックを使用しなければならない正当な理由が本当にあったのか、ということである。つまり、どうしても、あのヨーロッパの「ボディ」でなければいけなかったのだろうか、ということである。残念ながら、その理由は「ひとつ」しか見つからない――それは、「身体=ボディが本物だから」というものだ。

 トラックは、実際にヨーロッパの各都市でも使われたもの、まぎれもない「本物」である。しかし、日本の法律に抵触するとあらば、「リミニ公認」の下で、「べつの本物」をつくるということも可能だったのではないか。わたしがこれだけ本物にこだわっているのは、ヨーロッパで使われた「本物のトラック」を使ったからといって、その公演が「本物ではない」可能性もあるだろう、と考えてしまうからなのである。

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  この公演の原型である『Cargo Sofia-X』は、2006年にフランスのアヴィニヨン演劇祭で初演された作品だ。それまでにも『コール・カッタ――携帯電話演劇』(2005年)や『ムネモパーク』(2005年)を上演しているリミニ・プロトコルの作品ということもあって、ブルガリア人のトラック運転手によって40人ほどの観客が「輸送」されるというこの作品はすぐに話題になった。そして、『Cargo Sofia-X』は以降、ヨーロッパのさまざまな都市で上演されることになったのである。

 タイトルのXには、上演都市が代入される。パリでの上演ならば『Cargo Sofia-Paris』、スペインでの上演ならば『Cargo Sofia-Barcelona』、ヨルダンでの上演ならば『Cargo Sofia-Amman』といった具合だ。もちろん、各公演において出発地はソフィアではない。観客たちは、パリやバルセロナやアンマンにいながらにして、ブルガリアというヨーロッパの(地理的・経済的な)「端」から、自分の住んでいる都市まで、フィクショナルな移動をすることになるというわけである。

 この作品がインパクトをもったのは、改造トラックの内部に設えられた座席に座って眺める風景が面白いからではなく、「本物」の(=言語の通じない)ブルガリア人運転手が観客を先導するからでもない(少なくとも、それだけではない)。「運輸」というわたしたちの生活には不可欠でありながら、苛酷な労働を強いられ、かつ不可視の存在である彼らの生活=人生が、上演都市に根ざした「サイトスペシフィック(土地固有)」なこの作品とともに、浮かび上がってくるからである。

 「ミュンヘンの交通安全機構の調査によれば、シートベルトを使用しているのはトラック運転手のうち25%にも満たない。ADAC(ドイツ自動車連盟)の最近の調査によれば、ドイツでトラック事故に巻き込まれて重軽傷を負っているのは年間350人、20人が死亡している。時は金なり、無駄は厳禁。[......]2015年までに、トラック輸送量は60%の増加が期待されており......」。リミニ・プロトコルのホームページには実際、上記のような公演の「前提」を読むことができる(http://www.rimini-protokoll.de/website/de/project_108.html)。

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 規制緩和、新規参入、価格競争、効率化、合理化、低賃金化、労働時間長期化、事故増加。こうしたロジックには、わたしたちにも実に馴染みがあるはずだ。ソ連崩壊後、1990年代のヨーロッパで進行した人・モノ・サービスの自由化、ボーダレス化は、スウェーデンでドイツのトラックが走っているとか、それこそパリでブルガリアのトラックが走っているといった光景をつくりだしていった。補足すれば、こうしたなかでトラックの「ボディ」は「規格化」されていったのである。

 ヨーロッパのみならず、世界的な「自由化」の流れのなかで、日本のトラック業界にも「規制緩和」の波が押し寄せた。いわゆる1990年の「物流二法」である(正式名称は「貨物自動車運送事業法」および「貨物運送取扱事業法」)。しかし、新規参入が相次いだこの時期、バブル崩壊に伴う輸送量減少によって、けっして需要は増加していない。さらに軽油価格の上昇(2003年に64円/ℓだった経由は2008年には約2倍の144円になった)、環境規制による負担増がだめを押す(岡本常将「トラック運送業」、http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/document/2009/200886/04.pdf、川村雅則「規制緩和とトラック運送業」、http://www.econ.hokkai-s-u.ac.jp/~masanori/07.09truck )。

 このようななかで、コストの半数が人件費に消えるこの業界では、運転手の労働環境は当然のことながら「悪化」していく。最新の運輸労連の調査によれば、1/4以上の運転手が年収300万円以下だという(「カーゴニュース」第3851号、2009年12月3日号、http://cargo-news.co.jp/contents/code/091203_3)。昨年には、運転手の苛酷な労働にスポットライトを当てた映画が公開され(土屋トカチ監督、『フツーの仕事がしたい』、2008年、http://nomalabor.exblog.jp/)、トラック事故や過労死、それらの誘因ともなる飲酒、場合によっては覚醒剤の問題は、解消されないまま現在に至っている(神澤和敬、清水直子「「安全」のために覚醒剤(シャブ)を打つ――コスト削減要求に追い立てられるトラック運転手――」、『世界』、2006年2月号、岩波書店)。

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 しかし、今回の『Cargo Tokyo-Yokohama』で提示されるトラック運転手の「表象」は、このようなイメージとは正反対の「フツーの仕事」である。週末には山に登ってワインを嗜み、あるいは自家用ジェットスキーを(2台も!)もっているというのは、むしろ羨ましい生活水準ではないか。そして、デコトラの中身がキャンピングカーのようになっていて、台所やソファが見えた瞬間、わたしたちは予想を「裏切られた」思いをしたはずである。はたして、これでよかったのか。

 車内に最後に表示されたテロップにも疑問が残る。本公演ではトラック出発後から時折、「日通の歴史」が観客に提示されていくが(ちなみに『Cargo Sofia-X』ではウィリー・ベッツという巨大運送会社の歴史が解説される)、2009年3月に公取委が日通を含む12社に対して下した排除措置命令のニュース(http://www.e-logit.com/loginews/20090319x01.php)は、観客に「談合=悪」という観点から誤解を与えかねない。どうして独禁法に「違反」しなければならないのかが見えないためである。なお、こうしたカルテルの調査は「世界的に」問題になっている(公取委研究報告書「国際航空市場の実態と競争政策上の課題について」、http://www.jftc.go.jp/kenkyukai/kiseiken/071205hontai.pdf)。

 どうして「トーキョー/ヨコハマ」なのかというルートの問題は措くとしても(もともとは東京、横浜ぞれぞれのバージョンが上演される予定だった)、この公演によって、リミニ・プロトコルが切り込もうとしているはずの「現実」が覆い隠されてしまうことに対しては、大きな疑問を禁じえない。この公演が評価されるとすれば、『デッド・キャット・バウンス』と同じように、観客が「子ども」に戻れるから、という理由のほかはないだろう。公演は文字どおり、小学生の「社会科見学」だったのである(横浜の夜景はなかなか見事だった)。

 つまり、『Cargo Tokyo-Yokohama』は、「加工」が十分になされていなかったために、毒にも薬にもならない「社会科見学」と堕してしまったといえよう。そして、このような「無害化」は、外側だけを真似て内実は空無化するという――日本のある種の演劇における「形式的伝統」とも相通じるような――あり方である。リミニ・プロトコルの名前がクレジットされている以上、粗悪なコピー商品ではないにしても、外側(=トラック)が「本物」なのだから本物なのだというのは、ちょっと強引なコマーシャルだったのではないだろうか。

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 したがって、問題となっているのは「観客=わたしたち」である。あのトラックの「内部」に窮屈に座らせられた観客が、何をもって満足をするのか、何に不快感を覚えるのか、「そこ」にかかっている。プラダ、シャネル、ルイ・ヴィトンを崇めるように、定評のある「完成品」を崇めるだけで自足できるなら、それでよいだろう。しかし、ヨーロッパのフェスティバルを席巻する固有名詞をスター扱いしてしまえば、そこに批評の余地はもはやないに等しい(いいもんはいい、のだから)。

 そういう意味では、「固有名詞」が圧倒的に話題の中心を占めるなか、「日本バージョン」を制作するという『Cargo Tokyo-Yokohama』の使命は小さくなかったはずである。しかもこれは、リミニ・プロトコルという集団の特異性ともかかわっている。今回の作品を「誰か」に代表させることはできない。維新派=松本雄吉、庭劇団ペニノ=タニノクロウ、山海塾=天児牛大、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオ=ロメオ・カステルッチ......といった等式は、リミニ・プロトコルには該当しないのである。

 一人の劇作家や演出家に「完成品」としての作品を帰属させる、言わば「コピーライト的な発想」は、『Cargo Tokyo-Yokohama』には見事に妥当しない。今回はこの点が「裏目」に出てしまったといえよう。つまり、「日本版」を制作するにあたってのリサーチや構成が、(不測の事態も重なったこともあって)けっして十分ではなかったために、作品は一見すると「本物の身体」をもちながら、中身は「空っぽ」になってしまった(場合によっては誤解を与える公演になってしまった)のである。

 ということは、トラックの中に詰め込まれた観客(の頭のなか)も「空っぽ」だということなのだろうか。リミニ・プロトコルという「固有名詞」に喜び、『Cargo......』という「完成品」を享受したというなら、おそらくそういうことになるだろう。ここには固有名詞もなく、完成とは程遠いからである。だからこそ、この穴を埋める「加工」作業に全員が立ち会わねばならない。F/T秋の演目のなかで最も批判(=吟味)が必要な演目は『Cargo Tokyo-Yokohama』だったと声高に叫ばなければならない。なぜなら、「本物」はまだ存在していないのだから。