「迷いきれなかった迷子」
  <高橋英之氏>

 結論からいうと、主人公は迷子にはなりきれなかった。

 それなりの紆余曲折はあった。学校を出て年上の大川と不倫、喫茶店で偶然出会った友人の友人の石田とデート、一人暮らしの決断、唐突のプロポーズ、修羅場の分かれ話、そして迷子ぶりをにじみ出させる「わかんない」のセリフの繰り返し。ところが、突然、凡庸なる幕切れ。主人公は、東京タワーに登ってしまう。多分、「面倒くさい」というくらいの理由で。

今年のフェスティバル・トーキョーは、海外の演劇作品や関連するドキュメンタリーを映像で共有するテアトロテークというイベントを進行させた。ナチス・ドイツ時代に国威掲揚と集団的高揚感を捏造するために歌わされた歌を散りばめた作品があった。フランスの歴史ある劇団のドキュメンタリーの中には、北京オリンピックの開催に反対するデモを劇団が展開してみせるシーンがあった。そこにあったのは、社会に働きかけるメディアとしての演劇。予定調和的な享楽や、一時の現実逃避ではなく、ましてや勧善懲悪や悲恋のドラマではない。時代を切り裂いてそこに潜む何かを物語として取り出して見せ観客にぶつける、正しくパフォーマティブな装置としての演劇。そうしたものは、かつての日本の演劇にもあった。少なくとも、ある時期には、そうした装置として機能させようとする試みは日本でもなされていた。テアトロテークでそうした演劇の本源的な力を感じなおしたに違いない観客たちに向かって、そして数としては圧倒的に少ないながらも海外からの観客も席に着く国際演劇際を装うフェスティバル・トーキョーで、地元東京代表の一人である前田司郎は何をぶつけてきただろうか。

 それは、東京という都市のもつ凡庸さであった。広島や長崎のように、あるいはベルリンのように、都市によっては、逃れることができない物語がどうしようもなく張り付いているものがある。東京にも、大空襲があった、5.15事件や2.26事件のような血気盛んなクーデーターもあった、関東大震災も地下鉄サリン事件もあった、オリンピックも開催された。近代日本の首都として、さらには300年の歴史をもつ江戸時代の中心都市として、物語の数と深さにはこと欠かないはずの都市である。しかし、そうした個別の物語たちは、時間とともにはらはらとはがれおちてしまい、いまや東京は社会学者サスキア・サッセンのいうところの"グローバル・シティー"のひとつに完全になっている。東京に最も近い都市は、おそらく大阪でも名古屋でもない。むしろ、ニューヨークやロンドンなのだ。東京はグローバルな世界に生きる個人の活動の結節点。東京はもはや日本人の共同体としての都市ではない。過去に張り付けられた物語などとは関係なく、世界経済の一翼をになう凡庸なる顔をした機能都市。舞台の上の椅子は、それを象徴しているのではないか。前田司郎は、群れなす椅子について、自ら「増上寺の墓」であるとして解説してみせていたが、自分には東京にあるビルや場所がことごとくその物語をはく奪され、無色透明で凡庸なる存在となっていることを象徴させているように思えた。物語が見えないだけではない。立ち向かうべき権力も支配者も目には見えない。石を投げつける相手も、名指しをして声高に悪態をつくべき悪者も存在していない。そこで、人はどういう生を展開するのか。

 無色透明で凡庸なる都市には、宿命的な物語が剥奪されている分、逆に無数の物語が埋め込まれている。成功も失敗も、歓喜も哀切も、興奮も退屈も。そこに生きる人間には、無限の可能性が広がっている。ひとつに決める必要などない。迷子になることは、その可能性を保つために最適な戦略。サイコロの目を確定させないで、ひたすらサイコロを振り続けること。そうすることで、自らのための小さな物語を選び取りつつ、その結末を先送りする。『迷子になるわ』というタイトルからは、東京という都市が照射する可能性の豊饒さを、そこに生きる人間としてあえて積極的に受け止めようとする気概を感じさせる。そう、運命のいたずらに翻弄されて迷子になってしまうのではなく、あえて自らの意思で迷子になりに行く。実際、主人公は、自ら迷子になってゆく。墓石のように並べられたビル群の象徴をかいくぐって、手をつなぐ相手を変えながら、どこに行くのかとも判然としないまま、いやさせないまま。無限の可能性を閉じさせないように歩いてゆく。

 「本当は面なのかも知れないよね、線じゃなくて、時間て...」

 主人公は、その迷子の過程で、空間だけではなく時間軸をもさまよい始める。現代物理学の世界で実時間とは別の軸で進行する虚時間なるものまでもが想定されてきていることを、前田司郎が知っていたかどうかはわからない。ただ、現代物理学的な洞察さえ感じさせるこのセリフは、SF的な荒唐無稽さを超えて、人の頭の中や心象を考えたときには、もっと単純に現実感を帯びてくる。<こうだった自分>、<こうだったかもしれない自分>、<こうなっている自分>、<こうなるかもしれない自分>、それらは順序的な配置ではなく、自らの心象風景の中では並立して存在しているのだから。

 人はいろんなものになれる。可能性の地平線はどこまでも広がっている。都市の迷宮にはいたるところに可能性が埋め込まれており、存分に迷うことができる。迷子になれることは、都市に住む人間の可能性であり、希望ですらある。現実には、時間がその可能性を次々に潰していくのだが、都市に住む人間の心象風景には、もはやその時間すら時として可逆的に見え、常に可能性を温存されている幻想を抱かせてしまっているのかもしれない。あきらめの悪さ、そういう側面もあるだろう。可能性は人を迷わせる。自分の決断が、可能性を潰してしまうと思うと、決断することができない。作品の中で主人公が一人暮らしをしようとして両親と部屋を見学するシーンがあるのだが、ここでも主人公は特段の重みある理由もないまま、「どうしようかなあ」と悩む。彼女には、実のところ一人暮らしをすることは、ひとつの可能性にすぎない。「ちょっと色々試してみたい年頃なのよ」という説明は、そのことを如実に示している。色々ある中の可能性のひとつが決断を迫っている、そしてさしたる判断の基準もない。ここに、東京という物語を持たない都市の凡庸さがにじみ出ている。

 出演者たちは、みなこの凡庸なる東京に生きるイイ加減さを体現しており、巷間成熟した市民社会をもつと喧伝されているベルリンやパリの市民たちとの違いを露わにしてくれていた。石田役の大山雄史と役者として出演した前田司郎は、それぞれ「オフ」のスイッチを左胸に隠し持ち、それを押すと死ぬのだという宣告をするのだが、その宣言と同時に繰り出される彼らの身体の雰囲気は、むしろ逆にスイッチによって彼らが選択して来た人生の積分がリセットされて、新たなものを選び取るのだというようなトーンを醸し出していた。まるで、東京に潜むリストカット症候群の若者たちを象徴する雰囲気。「オフ」にすることで、これまで潰してきた可能性がまるでよみがえるかのごとき幻想。そして、その幻想にすがりつこうとする甘えとイイ加減さ。そうした雰囲気が、大山や前田の身体から発散されていた。

ただ、東京的なイイ加減さの表出という意味では、なんといっても、主人公を演じる伊東志保の放つ自然なイイ加減さが出色の出来であったといえる。もちろん、台詞は前田司郎の脚本通りに違いないのだが、その台詞はすべて伊東の身体にしみ込んで完全に一体化している。そもそも、冒頭のセリフの迷いにシンクロした伊東の身体の迷った感じは、凡庸なる都市・東京に生きる人間としての典型。可能性を温存するための躊躇が繰り返されるこの舞台のまさしくプレリュードだったのだ。

 「何飲む、何飲もうかな...あたしコーヒー、あたしコーヒーで良いや、
ああ、違うなどうしよう、ああ、冷たいやつ、冷たいやつにしようかな、ああ...」

 迷い、迷い続けて、可能性の時空を収束させない主人公は、その可能性を温存するための幻の装置たる東京で、永遠に迷い続ける。『迷子になるわ』というタイトルは、あくまでそこにポジティブに切り結ぼうとする積極的な態度を主張していたはずだが、前田司郎はあえて、そうした凡庸なる期待を裏切るさらに凡庸な結末を用意してきた。ラストシーンで主人公に東京タワーを登らせたのだ。カフカの"城"のように厳然とそびえて永遠にその接近を拒否する存在ではなく、ベケットの"ゴドー"のように可能性を永遠に収束させずに幕を閉じるのでもなく、さも、あっけなく。その目標とする対象は、権力の象徴かもしれない国会議事堂や首相官邸ではなく、経済的格差を象徴するかもしれない六本木ヒルズなどでも、伝統的な空虚なる中心である皇居でもなく、凡庸なる東京タワー。すべての来訪者を歓待してくれる東京の平凡なる象徴。

 舞台が始まったときから、それはそこにあった。赤の斑模様にスポットライトがあてられたロープ。そこに行くのかもしれない...無論、そう思わなかったでもないが、カフカだのベケットだのに毒された目には、あくまでそれはたどりつけない象徴としての存在としそこにあるのだろうと、そんな風に映っていた。ところが、伊東沙保演じる主人公は、
「いや、これ登れないかな、と思って」
と言って、そのロープを登り始めてしまう。それは、決断ではなかったであろう。むしろ一人暮らしの部屋探しのときに父親に言われた「面倒だから早く決めちゃえば良いだろう」程度の理由であったに違いない。時間さえもが平面展開されている彼女にとっては、そうした行動すらひとつの可能性、しかも取り返しなどいくらでもつくように思える選択にすぎなかったのだろう。

無限に広がる可能性を見せつけ、選び取る決断にすら重みがないような幻想を抱かせる誠に凡庸な都市。そこに悪意はない。もはや抵抗すべき敵もいない。人間工学的な正しさがあるだけ。そうした都市の中で、人は「迷子になるわ」と積極的な風を装って迷い道にくり出しても、結局、実につまらない着地をしてしまう。この感覚が東京という都市が醸し出す世界。前田司郎は、それを、この作品『迷子になるわ』の中であえて主人公に凡庸なる決断を唐突にさせてしまうことでありのままに伝えた。これが、ベルリンやパリに対抗して、新たな地平線を切り開く手段となったかどうかは分からない。この作品に示されるような状況が、巷間市民社会が発達しているといわれるヨーロッパの人々に理解されるものであるのかどうかも分からない。従って、国際演劇祭を装うフェスティバル・トーキョーの演目としてふさわしかったかについては、疑問が残らないでもない。ただ、この作品の指し示す東京という都市のどうしようもない凡庸さが、実のところ、世界標準では凡庸と呼ぶにはほど遠く、それゆえに国際フェスティバルで喝采を浴びるというこれまた近年凡庸に見られる現象の可能性が十分にあるのではないかという予感はした。もっとも、仮にそのようなことが起こったとしても、「迷子になるわ」という凡庸なる試みを生み、「東京タワーに登る」という実にどうでもよい凡庸なる着地に終わってしまう迷いきれない迷子たちの生が、そうした喝采に共鳴して突然輝きを増すということはないのだけれど。
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