大 音量のノイズ。森。本物の。テレビのニュースで見た森で起こったという陰惨な事件の記憶がよみがえる。これからイケナイことが行われるのだ。不安と相反す るアブノーマルな期待感が同時に浮かぶ。金属的な電子音の混ざるノイズ音楽は、恐ろしさに両手で耳を塞いだ時に聞こえる音のようだ。
薄明かりの中に男の姿が見える。地面に転がるビンをどかして場を整える。そして現れるアスリート風の体格の少女。二人は体操の選手とそのコーチである。 おもむろにトレーニングを始める。身体の柔らかさを強調する柔軟体操。男性であるコーチの目の前で少女の股関節が広げられる。それから木々の間で行われる側 転。執拗に回転が繰り返される。いつしかコーチの姿が見えなくなっても、少女は一人、回転を続ける。森に霧が満ちてくる。今は何時なのか。霧は尋常でない 濃度で森を浸し、少女を押し流す。流れの中で踊る少女の動きは急流できりきり舞いする人形あるいは死体のように手足の動きがばらばらだ。ついに霧に飲まれ 姿が見えなくなる。後はただ霧だけ。暴力的になまでに降り注ぎ客席までも霧の底に沈める。ホワイトアウト。もうこのままずっと白い空間に取り残されるのではない かという不安がよぎる。
徐 々に薄くなる霧。思いのほか早く舞台から消える。すると森の中に革づくめの服を着た若い男がいるのを見つける。ゆらゆらと歩く男の独白。ロックスターであること、ドラッグ中毒、そしてガールフレンドを 殺したこと。無秩序を体現したかのような人生。自分の身勝手さを棚に上げて死を願う。その願いは突然成就される。現れたコーチに殴り殺されるのだ。コーチである彼もまた無秩序を内面に孕んでいたのか。自分がなし得なかった殺人をゆうゆうと犯したかに見える男が現れた時、完璧な美と讃えつつも体操選手の少女に対する性的な葛藤 に苛まれていた彼の中で、ぎりぎりに保たれていた秩序が崩れたのか。突発的に振るわれた暴力。生々しい殺人の現場で、少女は横たわるロックスターを見下ろす。 そして静かに歌い始める。人生を体操に捧げたかに見える彼女の内面にもまた尋常でない思いが潜んでいるようだ。
完璧な自然の秩序を保ち、四季を繰り返す美 しい森はまた、木々が絡み合って闇を作り出し、陰湿な事件の現場ともなりうる。森は心安らぐ麗しい場所か、はたまた恐ろしい場所か。ある人が体操という 完璧さが求められる世界に身を置きながら、その完璧さを壊す暴力やエロスへの希求を内に秘めているなんて他人には与り知らぬことだ。
この場面までは、舞台はまだ演劇の枠内に収まっていると言える。途中、通常演劇で思い描く範囲を逸脱して霧が存在感を主張した場面はあったが、観客はひとつのス トーリーを思い描くことができた。だがこの後、頭の中に組み上げた物語は思い切りはぐらかされる。舞台上に現れたのは人形で表現されたある現場。一 瞬、先程の殺人の場面を人形で再現したのかと思うが、よく見ると奥にさっきまではなかったテントが張られている。木の傍らには立ち尽くす子供たちの姿があ る。どうにかして頭の中のストーリーと目の前の光景を繋げようとする観客の努力も虚しく、場面は転換。アーチェリーの練習をする男が現れる。脈絡なく現れたこ の男は木に吊るした的に矢を射り、的から矢を外し、また矢を射る。そこへ本物のハヤブサが飛んできて観客の心を乱す。ハヤブサが飛び去ると今度はフクロウ だ。予想だにしない本物の動物の登場はかなりのインパクトがある。そして疑問ばかりが頭に浮かぶ中、幕切れとなる。
こ れほどまでに柔軟な想像力が求められる舞台はそうそうないだろう。それぞれの場面すべてを結ぶ確固たるストーリーが見当たらないからだ。場面ごとに展開さ れる行為の解釈方法は提示される事はなく、すべては観る者の想像力に委ねられている。観客の頭の中で作り上げられた物語はすぐさま次のシーンで辻褄が合わなくな る。この作品に芝居的なものを期待していたら驚かされっぱなしだ。突然少女が踊り出し、しかもセリフもなくただ踊るシーンが長々と続く。それはダンスの公 演を見ているようだ。さらには舞台上に俳優がいなくなり、思いのほか長時間にわたって霧が降る。舞台は芝居の要素がなくなり、ひとつのインスタレーション と化す。今見ているのは何なのか?芝居を見に来たはずだが・・・と途方に暮れてもおかしくない。観客は次から次へと繰り広げられるページェントをただ見守るしかない。
こ のようなシュールな展開の舞台は、ともすれば観客を突き放し、時には呆れさせ、ステージへの集中を途切れさせることがあるものだ。しかしこの作品に関してはそういったことが 全くなかった。それは少女の驚異的な身体能力、大量の霧、本物の鳥という興味をそそる対象が次々に現れるせいでもある。それぞれ一瞬にして人の注意を引く魅力を持っているのは事実だ。だがそれ以上に尋常でない舞台の雰囲気が人を惹き付けるのだ。夜の森で感じるよう な、イケナイことが起きるのではないかという緊張感が舞台上に漲っているせいだ。それは殺人をひとつのクライマックスとした後も続く。森を 美しく時に不穏に浮かび上がらせる照明や不安を掻き立てる大音量のノイズ音楽とともにずっと心に残り、アーチェリーの練習という何でもない平和なシーンまでも「この後に何か事件が起きるのではないか」という気にさせる。緊張感の虜となった観客は目の前で起こっているのは何なのか手がかりを得ようと、視覚聴覚を駆使して舞台に釘付 けとなる。そして舞台上の全てがこの注視に耐える。見る者を現実世界へと引き戻す日常の残滓を感じさせるほころびはどこにもない。美術、照明、音楽が一体となり全く独自の世界が終演まで存在し続ける。
ステージ上に現れた森は異常なほど作り込まれている。なぜそこまでする必要があったのか?霧はなぜあそこまで執拗に降り注ぐのか?人形は、鳥はなぜ突然現 れたのか?それはリアルであることによって、過剰であることによって、唐突であることによって、それ自体として記憶に残る存在感を示すためだ。森も霧も鳥 も音楽さえも人間の引き立て役に留まらない。それぞれに意味を見いだすのが難しいが故に、逆に何か使命を帯びて登場してきたような気がする。絵画が見てくれの美しさの影に読み解きを必要とするイメージを含んでいるように、この舞台世界に現れる全てが 謎を秘めているようだ。登場する全てが疑問を抱かせる。だがそれは我々が理解できないだけで、それぞれが関係を持ち得る状況があるのかもしれない。そう考えるとこの舞台はまるで知覚を超えた世界の存在を示唆しているかのようだ。死のイメージに満ちたモノローグが、演じられているのはあの世での出来事ではないのかとも思わせる。
ジャンルにかかわらず優れた作品がそうであるように、この舞台は観た者に「何かを体験した」という感じを与える。自らの経験となりうるほどに舞台に引き込まれ、深く感覚が刺激される。たった90分 ほどの公演なのに、どこか遠くまで行って帰ってきたようだ。それほどまでに頭の中は激しく運動させられる。ストーリーの発見とその崩壊。混乱する頭の中を霧が空白にする。美しさとおぞましさの共存・・・こういったことが全て各自の頭の中で起こるのだ。だが結局、我々観客が体験したものは何だったのだろう?納得のいくストーリーは得られなかった。何かに感動したということ もない。でも不満はない。我々はすでに見知っているものが謎を秘めて立ち現れる世界を知った。何か神秘なものに触れたのだ。それだ けで充分だ。
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