現代において「アルトーをやる」意義はどこにあるだろうか。有名な「残酷劇」というテーゼを中心とするいくつかの演劇論は、ポスト・ドラマ演劇を強調する今日のパラダイムに都合の良いものの様に思われる。あるいは暴力的な主題の選択。あるいは身体の力の強調。しかし、近年少しずつ見られる様になったアルトーを用いた演劇は、往々にして反アルトー的である様に思われる。アルトーは、演出家の戦略に落としこまれてはならないのである。というより、「アルトーを使おう」とすればするほど離れていってしまうのがアルトーだということができるだろう。では、今日アルトーを読むということが哲学以外でありうるだろうか。残されたテクストから、彼の強烈な思考と身体を経験/直観すること以外に何であるだろうか。
アルトーの抱えていた問題圏は演劇にはとどまらない。偽りの価値基準の横行、精神と身体の分離、あるいは言語の特権化などといった、西洋文明を強く規定していた枠組みの破壊という目論みが非常に強い。演劇はむしろそれを達成するための方法であったとも言えるだろう(1)。彼のいう「残酷」とは、まさにその様な破壊の観念に基づいている。しかし、いわゆる脱近代というパラダイムに回収される様な言説でもない。彼は「器官なき身体(※後述)」という不可能な目的への絶えざる接近を実践していた、というよりまさに、そうすることでしか生きることができなかったのである。フーコーやデリダ、ドゥルーズといったフランスの哲学者たちは、彼の生のあり方に強く興味を持ち、自身の哲学の一端とすることになる。そこで展開されている諸議論は、「主体の死」以降行き場を失った我々の身体に、着地の可能性を垣間見せてくれるものの様に思う。その中でも、特にアルトーを多く援用するドゥルーズの議論を簡単にではあるが抽出してみることにする。ドゥルーズの哲学は、差異の哲学であると言われる。特に、同一的主体――神や、「思考するわたし」などを絶対的な基盤として据え、それを中心に構築された主体――を脱していく、内的な差異を肯定する。時間の経過とともに自我には亀裂が入るのであり、この絶えざる断絶と、断絶の反復こそが存在の本質であると説くのである。この内的な差異を中心に据えることで、存在は一義性を再び獲得する。この一義的存在が、全ての創造性の潜勢態とされるのである(2)。さて、アルトーの身体はまさにドゥルーズの哲学をそのまま現した様なものであった。我々の身体は、この世に生まれ落ちた時点であまりにも多くのしがらみを伴う。キリスト教的な文化や伝統、そして言語の過剰などとの接触のおかげで、我々の身体は諸規定のうちにとらわれ、純粋なものでは有り得なくなる。アルトーは自らの身体とその様な外的諸規定――それは常に内部、身体を浸食している――との齟齬に苦しみ、そこからの脱却として「器官なき身体」の構築を望むのである。器官(organes)とは、まさしくその様な浸食を表す様なものであった。しかしこの様な内的差異の創出は、偶然的なものでしかない。内的な差異の様々な形態、例えば行動の動機が、進化の過程が、創造的な行為が、どうして必然的であるだろうか(3)。それゆえ、内的な差異=器官なき身体の創出は、潜勢的であり、偶然的であり、まさにその様なものとして統一的であるのである。ではこの様なアルトーの生と対峙した三浦基の試みはどういうものであっただろうか。
『―ところでアルトーさん、』において役者は、例えばラジオのチューナーといった小道具をいじりながら、装置の周りを歩きながら、発話する。その発話は、ラジオの台本、あるいはアルトーの書簡を基にしたテクストを音節や単語ごとに分節化して、奇異なイントネーションを用いてなされる。そしてそれを徹底的に反復するのである。各役者にあてがわれたテクストの中で、特別な強度を持つ言葉(例えば「身体」「糞便」「魂」など)は、強調され特権的な発話形態がとられていた。そして身体と発話は連動し、相互浸透的に作用していた。つまり身体の速度や方向を基に発話が形成され、特権的な発話に身体が反射/反応するという様なものである。これは半ば機械的な反復であった。というのも、発話=運動への意識の介在が弱かった様に思われるからである。作品の序盤は一人一人が各シークエンスを担当し、上記の様な機械的反復を順に行っていく。それは最初単独で行われたが、二人目以降が反復を行う際には、前の発話=運動者や他の役者の、運動のみの反復が空間内に並存していく事になる。彼らは特に一体感を志向していた訳ではなかった。それぞれが自らの機械的反復を遂行していただけなのであるが、そこには奇妙な統一が存在していた。また、逆説的ではあるが、極度の人間性が現前していた。これはどういうことであろうか。
ベルクソンによれば、伝統的な悲劇における登場人物は状況によって生かされている。筋にそった出来事が彼を大きく規定するのであって、彼の固有名は殆ど意味をなさなくなる。それに対し、喜劇における滑稽な自動運動は、人の生のあり方を我々の感性により強く訴えてくるというのである(4)。制度や慣習、状況にとらわれた身体性よりも、機械的な反復の方にかえって生が垣間見えるというのは、アルトーの思考そのものであった。彼が「器官なき身体」という概念で言おうとしていたのは、まさしくそのことなのである。そしてアルトーは、演劇によって器官なき身体を獲得しようとしていた。戯曲や演出、俳優など様々な要素に分断されてしまった西洋演劇に抗し、統一的な演劇を求めたのである。その様なアルトーの試みも、やはり偶然的にしか達成されえない(5)。機械的反復から生まれる偶然的な身体の湧出が、演劇における統一を構成するのである。
この様に見ていけば『―ところでアルトーさん、』、あるいは地点の方法が、アルトーの問題圏と多く交錯し、それを現勢化していたということが分かるだろう。しかし、今作品に見られた「奇妙な統一」を積極的に規定することは難しい。やはりそれは舞台上で起こった偶然的なものであったという他はないのである。それゆえ、その創造性の発露をここで記述するよりはむしろ、「何がアルトー的でなかったか」、「何がアルトーを裏切るのか(6)」を語る方が有意義である様に思われる。今回の作品では「意図」の観念が器官として少なからず舞台を支配していた。批判が向けられるとすればそこに尽きるだろう。例えば、上記した機械的反復が、中盤、複数の役者によって抗争させられた。各々の反復は主張を強め、その力動によって空間を埋め尽くそうとしたのである。各役者の内で、他の機械的反復に対する反射が起これば作品の内部に統一的な場を構成することもできただろうが、ポリフォニー的調和という目標に向って発話=運動がなされたために、演出家の意図が前景化してしまった。また、激しい手旗信号を行いながら発話をするという機械的反復のシーンでは、複雑な手旗信号の動きと、単語を一致させようという意図が見えた。そこでは「アントナンアルトー」という単語が何度も繰り返されるのであるが、「アン/ト/ナン/アル/トー」と五つの分節に対応させた手旗信号の規則があった様で、規則に遅れを取るまいとする身体と意識の意図が介在せざるを得なかったのである。上記した様に、機械的反復を遂行するためには運動と発話の相互浸透が要るのであるが、それらの要素を分解し、意図という固定点に集約を目論んでしまったのである。その様な固定点は、内的な差異を肯定するのであれば、最も排斥すべきものであろう。他にも、観客の方を向くことや、主張の強い映像や照明なども強烈な意図として作用してしまっていた。しかし、我々が生を営む上では、諸事物と関係せざるを得ない。ということはつまり、そこへの志向性を必然的に持つということであり、意図も必ず介在する。そのため、意図は最も排斥すべきであると同時に最も排斥し難いものでもあると言える。更に言えば、排斥した瞬間に、再びそれに捉われてしまうというのが意図の本質である。「器官なき身体」は、求めると同時に逃れていく虚焦点であり、やはりそれは偶然的にしか獲得することができない。必然という観念は意図の延長であるからである。しかし創造の動機、あるいは戯曲の選択や演出行為などは何かしらの意図であることは間違いなく、それらを全て排斥しなければならないということでは勿論ない。意図を意図的に排斥する必要も出てくるであろう。統一的演劇、器官なき身体の強度を高めるのが、どのレベルの偶然性なのかということは今後問われねばならぬ問題であろう。(私はここで「イメージ」の問題が介在してくると考えているが、この論考は別の機会に託すとしよう)
現代における水平的な価値基準の称揚、グローバリゼーションの進行と無批判な多様性の肯定は、ただ不安定な主体を残しただけであった。それに伴い演劇に起きた問題は、単なる物語の弱体化、断片的なイメージの濫造、力の湧出とは名ばかりの乱痴気騒ぎである。近年はそれらに対する反動が起こっている様にも見えるが、そこで目指されているのは国家アイデンティティの強調と強い主体への回帰、演劇においては強固な物語の再建である。「演劇」は政治的にも強固なヒエラルキーの構築が目指され、その社会的地位を高めようとする目論見が先行している。しかしこれでは対立と排斥に基づくいわゆる近代的主体形成を繰り返すだけであろう。この問題に抗して(あるいは乗じて)「演劇を脱ぐ」といったところで、演劇の内部での形式的な遊びにすぎないものとなる。今回の地点の作品は、この様な現状に亀裂を入れる、強度のある「存在」であった。タイトルである「ところでアルトーさん、」というフレーズは、晩年にアルトーが書いたラジオドラマ『神の裁きと訣別するため』の最終章「結論」の冒頭部分の引用、ラジオの司会者がアルトーに話しかける際の最初の発話である。この司会者はアルトーに対しいくつかの問いを投げかけるのであるが、三浦基の念頭にもアルトーという潜勢力への絶えざる問いかけがあったことは間違いないだろう。三浦基は、少なくともある程度は、誠実な質問者であった。そして再びドゥルーズに倣えば、存在を肯定するために我々ができることは、問題=問いの提出でしかない。目標への前進や、そのための矛盾の解消といった意図的な行為ではなく、潜勢力が内包している無限の問題=問いを掘り起こし、それに向き直ること。それはすなわち、過去の遺産を引き受け、人間存在の自由を見出すことに他ならない。こここそが今後の主体形成の端緒となるべきであり、演劇が生成され、生きられる場になる必要があるだろう。アルトーは、問われることを決して止めない。問題=問いが発露する場、潜勢力としてのアルトー。地点の試みは、まさしくその極めて小さな、しかし極めて強度のある、現勢化の一形態であったといえるだろう。
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註
(1)1983法政大学出版局 ジャック・デリダ著『エクリチュールと差異(下)』所収 梶谷温子、野村英夫訳「息を吹き入れられたことば」
(2)ドゥルーズ哲学のエッセンスは最初の主著『差異と反復』に凝縮されている。そこでは潜勢力というモチーフが大きな位置を占めているが、これはベルクソンに多くを負っている。詳しくは『ベルクソンの哲学』を参照のこと。
(3)偶然と創造(=進化)の議論はベルクソン『創造的進化』より。またドゥルーズは、偶然の総体を肯定すべきであるという議論を展開する。1992河出書房新社 財津理訳『差異と反復』
(4)1976岩波文庫 アンリ・ベルクソン著 林達夫訳『笑い』
(5)1996白水社 アントナン・アルトー著 坂原眞里訳『アントナン・アルトー著作集Ⅲ 貝殻と牧師』所収「アルフレッド・ジャリ劇場(初年一九二六〜二七シーズン)」
(6)『エクリチュールと差異(下)』所収 若桑毅訳「残酷劇と上演の封鎖」
その他参考文献
2006河出文庫 アントナン・アルトー著 宇野邦一、鈴木創士訳『神の裁きと訣別するため』
1996白水社 『アントナン・アルトー著作集Ⅰ 演劇とその分身』
2010河出文庫 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガダリ著『千のプラトー』所収 宇野邦一訳「いかにして器官なき身体を獲得するか」