『ブッツバッハ村、あるいは現代のポチョムキン村』
  <百田知弘氏>

 公演を見終えて思い出したのは、「ポチョムキン村」のことだった。18世紀の帝政ロシアで、皇帝の視察に備え、その寵臣が急ごしらえで張りぼての村をでっち上げたとされるエピソードである。無論、ポチョムキン村は一時的な視察に堪えるためだけに存在したわけで、「永続のコロニー」と謳うブッツバッハ村と直接の関わりはないのだが、随所に目を見晴らされるような着想や演技を配しつつ、同時に登場人物たちの「薄っぺらさ」が容赦なく暴き立てられているという作品構成に、どこか通ずる要素を感じたのだ。

 舞台を目にしてまず違和感を覚えたのは、事前に配布されたパンフレットの解説でも触れられているが、やはりその奇妙な構造だ。そこにあるのは、「屋外でも、屋内でもない」空間である。舞台中央には屋内用の机や椅子が並んでいるのに、奥側には銀行のカウンターがある。そしてよく見れば、並んでいる椅子もオフィス用のものや客間用のものがまぜこぜだし、脇にはなぜかベッドまで置かれている。しかしそれらの周囲を取り囲むのは、本来なら道路に面しているはずのガレージの扉や街灯で、上手側の壁の同じ位置には内側と外側両方に向けてバルコニーが張り出してさえいる。屋内と屋外、それぞれ複数の部屋や場所を、一カ所に重ね合わせているのだろうか。ところが、上手側のガレージの奥へ消えた若者がしばらくすると下手側のチェストの中から現れたりするところを見ると、どうやら「村人」たちはこの空間から抜け出せないらしい。とはいえ、例えば全世界的な経済破綻が前提とされていたり、若者たちの台詞にインターネットやYouTubeの話題が出てきたりする辺り、決して外部との連絡が絶たれているわけではないのだが。半面、見事な二重唱を披露している二人組を不意に銃声が襲ったり、いきなり入ってきた男たちが差し押さえられた家具を有無を言わさず搬出していくなど、外部からの介入は一方的だ。

 こうした非対称性を踏まえると、冒頭で女性たちだけが舞台に登場して思い思いに腰かけ、しきりに欠伸や溜息を繰り返すシーンは、別の見方も可能になる。あの場面の背景に流れる車のエンジン音は、差し押さえられた車が持って行かれる時のものか、あるいは出て行くことを選んだ者たちが村を去る時のものか。いずれにせよ、ガレージには折り畳み椅子などが持ち込まれているのだから、それなりの時間経過はあったのだろう。「発酵組織研究所」と書かれた看板の通り、ブッツバッハ村を密閉された発酵タンクの内部になぞらえるなら、言わば雑菌や不純物を取り除く工程に当たるのかもしれない。すると、一人だけ交じっているフランス語話者は、コミュニケーションに苦労しつつも村から排除されてまではいないわけで、何らかの理由で必要な要素ということになる。彼の台詞には字幕が付かないこともあり何を喋っているかまでは分からないながら、コメディーリリーフとして機能していることからすると、観客に対しての「口当たり」を良くするためのキャラクターなのか。さらに展開して、この公演に来た観客を「村に迷い込んだよそ者」として体現させている、と見るのはさすがに穿ち過ぎだろうか。

 さておき、ではそもそも、ブッツバッハとは「村」なのか? 「村」という言葉からまず連想するのは山川や緑といった自然物だろうが、舞台の上はそれらと全く無縁な空間だ。人間以外の生き物といえば時折カラスの鳴き声が響くだけだし、村にはどうやら団地まであるらしい。そして村人たちはといえば、皆無と言っていいほどに生活感が欠けている。労働している形跡は全くないし、金銭や物品のやり取りも行われない。飲食する場面すら(警備員が何やら飲んでいるのを除いて)出てこない。ただぼんやりとその場に佇み、時に即興的なパフォーマンスを交えつつ、舞台は進行していく。もちろん個々の演奏や歌声の高い技量は評価に値するのだが、その技量を主体的に発信しようという発想は(YouTubeだって見られるのに!)村人たちには皆無のようだ。それなりの水準の知識や技能なら誰でも容易にアクセス可能となった現代において、「教養」は「常識」へと陳腐化し、さらには「常識」さえも重みが薄れつつあるのを悟っているのかもしれない。

 実際のところ、歌声や伴奏の見事さの割に、交わされる台詞は実に「薄っぺらい」。例えば、銀行のカウンターを挟んでの、銀行員とネイリストの会話。ネイリストの女性は「融資さえしてもらえればうまくいく」と無根拠なことを言い募り、現在の経済的な苦境は自分のせいではない、と繰り返す。村から出られない村人たちが必要以上に外見に金をかけるはずはなく、新たに住民が増える気配もない、という現実が見えているのだろうか? 対する銀行員も、「経済破綻は世界的な現象で、融資できないのは仕方ない」の一点張りだ。双方共に、どこかで聞いたような言い訳に頼って「経済破綻の責任は自分にはない」とする主張は一致しているが、それゆえに商談は何ら建設的な展開を見せない。

 ガレージの入り口に寄りかかったまま三人の若者が交わす会話も、「薄っぺらさ」ではとりわけ印象的である。会話は、恐らくインターネットで知ったのだろうセレブ芸能人たちの「クールな」話題から始まるが、これまたどこででも耳にするような噂話だ。そして途中から青年が「リーダーにならなくちゃ」と語り出すのだが、その口調からは今一つ熱っぽさが伝わってこない。なぜかといえば、彼がリーダーを目指す動機は、そうすれば「クール」だし「周りから評価される」という程度のものでしかないからだ。彼自身が「衝突が存在しない」と認識している土地柄(無知によるのか諦観によるのかはともかく、その長閑さだけは田舎らしいが)でリーダーシップが本当に必要とされているのか、考えは至っているのだろうか? 他人の評価のみを自身の判断基準とするのなら、そんな薄っぺらな個性は、リーダーに求められる資質とは対極と言っていいはずなのに。その同じ彼が、舞台中央に進み出て、苦労しいしいトランペットを吹く姿は印象的だ。あるいは、彼の考えるリーダーシップとは、演奏で皆の歌声をリードするという程度で十分なのかもしれない。ならば、なぜ彼が指揮者を目指さないのか奇妙に思えるし、だからこそこの場面は重要な示唆とも受け取れる。トランペットを吹きながらでは、皆と共に歌声を響かせることは不可能なのだから。

 上で挙げたような、どこかで聞いた話のコピーに過ぎない発言は、役者たちの見せる動作にも似通った要素が窺える。冒頭、椅子に腰掛けた女性たちがしきりに繰り返す欠伸や溜め息と、奇妙な仕草。よく見ていると、全員が同時に動き出すのではなく、ちらりと横を窺ってから動いているようだ。同様のことは終盤、ファッションショーもどきの一連の場面が終わった後、村人たちが床に伏せてからも行われる。こう考えてくると、随所に挟み込まれる即興的な音楽パフォーマンスも、実は単に「周囲から与えられたきっかけに応じて、反射的に」行われているだけではないか、という見方も可能になるだろう。周囲の評価が得られるか否かが己の判断基準となり、自信を持てなければとりあえず周囲に合わせて動く、というルーティーンが形成されてくるわけだ。

 社会的、また個人的な経済発展のモデルが崩壊し、将来の方向性を見失っているからこそ、とりあえず他人の評価や行動を頼みにしてしまう。とはいえ、その「他人」もまた方向性を見失っていることには変わりなく、評価基準といっても実は根拠の薄弱な、事によれば無根拠なものでしかない――ブッツバッハ村に見て取れるこの構図は、恐らく既に世界的な広がりを得ており、それゆえ村は「巨大なる」という形容詞を冠しているのではないか。そして村の領域は、世界的にも将来的にも、あたかも酵母が次々と物質を作り替えていくように、さらに拡散し続けていくのだろう。だが、これが実際の発酵であれば、程良い段階で反応を止めない限り、やがて完全に腐敗して利用に堪えなくなってしまう。果たして、放っておいたら取り返しがつかなくなるという危惧を、村人たちは抱いているのか。もっとも、題名にある「永続の」という形容の所以を「これ以上は変化の余地がない」と解釈するなら、既に手遅れということになるが。

 彼らは緩やかなペースで無為なやり取りを続けながら、村に留まり続ける。そこに外部から一方的な介入が加えられる、という非対称的な関係から容易に連想されるのは、神意とそれを受け入れる人間の関係だ。確かに、「神」を意識させる場面はいくつか登場する。例えば、差し押さえで家具が運び出されていく場面で街灯の下に集まった村人たちが歌うのは「闇に射し込む光を称える」という内容であり、彼らの仕草も含め、宗教的なモチーフに彩られている。また終盤、村人たちが「ファッションショーもどき」を繰り広げる場面で流れている歌声は「キリエ・エレイソン」、即ち「主よ、憐れみたまえ」だ。しかし、村人たちの退廃的とも言える無気力さを見せつけられた後に「神」を持ち出されても、それは彼らが真剣に恩寵や救済を求めている証なのか?という疑問を感じずにはいられない。差し押さえに遭うことが「救いの手」でなどあるはずがない。むしろ、諦観あるいは無関心の末、不意に訪れた変化をとりあえず歓迎してみせているだけではないのか? この舞台に出てくる「神」は救済を与える能力など有しておらず、かように無力な存在を信頼していない村人との間には、極めて脆弱な関係しか成り立たないはずなのだから。

 最後の場面では、管理人が舞台上の各所を点検して明かりを落としていき、何やらレポートをまとめ始める。この場面での管理人が、極めて事務的にデウス・エクス・マキナの役目を果たしているのだとすれば、現代におけるポチョムキン村には誠に相応しい結末と言うべきだろう。そして同時に、既に皇帝が廃され、神は力を失った世界において、ブッツバッハの村人たちが抱いているだろう閉塞感は、観客である我々も共有している問題意識に他ならない。我々は村を視察する立場にいるのではない。我々は、既に村人の一員なのだ。
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