舞台前面には下手から数本のブラックライトが平行に並べられ、ワイヤー様の線が各々の端から垂直に天へ伸びていた。 ダンサーたちは一列に並んで登場し、ブラックライトを一本一本またいで前進した。ワイヤーで描かれた垂直の線、一本一本を通過した。
液晶ディスプレイの構造をご存知だろうか。 薄型ボディの中は、前面から偏光フィルタ、ガラス板、透明電極に挟まれた液晶、ガラス板、偏光フィルタ、光源の順に並ぶ多層構造になっている。 大まかには、液晶層に電圧を掛けて電界を作ることによって、液晶分子の配向(直径0.4nm、長さ0.2nm程度の細長いつぶつぶの向き)をコントロールし、透過する光の量を変化させる仕組みである。
液晶とは、液体と固体の中間の状態の一つである。感覚的に言えば、とろとろぷるぷる状態である。
"skinner"は一義に、「皮をはぐ人」を示す英単語である。 『SKINNERS―揮発するものに捧ぐ』では、「光と身体が世界の皮を剥ぐ」らしい(公演チラシより)。そこで踊る身体もまた世界の一部であるからには、皮を剥がれねばなるまい。
人間の皮膚には、液晶構造が存在する。 体の最も外側を覆っている角質層で、細胞と細胞の間を埋めているのがそれである。
人間のあらゆる動作の殆どは、皮膚の動きを通して他者に認められる。 動きの基点となるのは骨格、時に筋肉そのものであったりするが、我々が視覚で捕えるのはそれらに付随して動く皮膚の動きである。
人間の皮膚を、液晶ディスプレイになぞらえる。
私はこう考えた。冒頭、数本のブラックライトをダンサーたちがまたいで通過するのは、パソコンの液晶ディスプレイの奥に入り込んでいくことの象徴であった。これから演じるのは、ディスプレイされない内奥の、表層を剥いだ何ものかであるという提示である。 人体で言い換えれば、液晶ディスプレイとしての皮膚を剥ぎ内奥を開陳せんと言ったところである。
「ディスプレイ」から念頭に上るのは、人間の「意識」である。
我々の知的活動の100%は無意識に為されており、意識はその結果を表示する機能しか持ち合わせていない(デイヴィッド・リヴィングストン・スミス(三宅真砂子)『うそつきの進化論 無意識にだまそうとする心』2006年8月、日本放送出版協会)。 なるほど皮膚のムーヴメントは、骨格と筋肉が駆動した結果が「表示」されるに過ぎない。
本作における使用音楽の作曲家、リゲティの技法に「ポリリズム」がある(矢野暢『20世紀音楽の構図ー同時代性の論理ー』1992年6月、音楽之友社)。「単純で明快な、いわば速いテンポでのリズム操作によって不規則性を表現する」と言う。「ピアノのためのエチュード」の速さたるや、めまぐるしくて何を聞いているのか分からなくなってくる。
「速度」から想起するのは、シュルレアリスムにおける自動筆記である。
広げたノートに向かい、何も予定せず、ひたすら書く。ゆっくり書く所から意識的に速度を高めて行って、最後は殆ど記述不可能になる位のスピードまで高めてみたり、それを逆に辿ってみたりする。
書かれたテキストを調べてみると、動詞はスピードを上げるにつれて過去形から現在形に変化して行き、過渡的に未来形にもなるが、最終的には原形に落ち着いて名詞の様に使われる。或いは動詞その物が無くなる。従って、超スピードで書いた時に現れる文章は、名詞・動詞の原形・形容詞・前置詞だけが繋がった「シュザンヌの堅い茎、無用さ、とくにオマール海老の教会つきの風の木の村」の様な脈絡の無い物となると言う。
(巌谷国士『シュルレアリスムとは何か』2002年3月、筑摩書房)。
「時間と空間がないところ。意味が揮発する、新たなダンスの領域」目がけて、高速演奏の超絶技巧を要するリゲティの調べに乗せて身体の自動筆記を企てた。奔流のごとき疾走感を持つ本作の振付けについて、私はその様に解釈している。
自動筆記によってアンドレ・ブルトンが到達しようと試みた領域こそ、無意識であった。液晶ディスプレイとしての意識を剥がして内奥を提示しようとすることが本作の眼目であるならば、いかにも合致した手法である。
「体の気体化。精神の物質化」(勅使川原三郎『青い隕石』1989年12月、求龍堂)とは、正に彼の創作モチーフを語る言葉かも知れない。
私が勅使川原のプロフィールを読んでいて釈然としなかったのは、経歴としてクラシックバレエに言及する一方で、マイムに触れていないことであった。
日本マイム研究所に在籍した経歴は、彼の創作にとって、技法と思考の両面で少なからぬ存在感を帯びていてしかるべきものである。
例えば本作においても、身体要素の分解は根幹をなすテクニックである。
頭、首、胴、足、腕、さらにはもっと細かいパーツに身体を分け、個々のパーツを独立させて動かす。身体を震わせる様な動きや波を通す様な動きも、「分解」されたパーツを適切にコントロールすることから成り立つ。
クロード・キプニス著『パントマイムのすべて』(2000年12月、晩成書房)に、興味深い記述を発見した。曰く、
「マイムとは現実の幻覚を造り出す芸術なのです」。
氏は、「マイムは世界を再形成する」という命題を掲げている。
「マイムはリアリティーそのもの」ではなく「リアリティーの一部」を造りだすものである。「既に存在する物質に対してその形態をつくり出して見せるか、またはそれに対する意識を集中させる(ことで連想させるー訳者)」のだと言う。
なるほどその通りである。
「マイムは『外的世界』をあたかも存在するようにみせ、同時にイマジネーションによる彼自身の『内的世界』を表現」する。「マイムという芸術はこれら二つの世界が出会う時、その場において生じる物」なのだと言う。
たとえば、リンゴを演者がイメージする。観客にはその何たるかは伝わらない。リンゴを見る目付き、もぎ取り方、かじり方を目の当たりにする時、そこにマイムが生じるのだと言う。「内的世界」と「外的世界」の出会いである。
ところで、氏が「抽象的パントマイム」に難色を示しているところに着目したい。非常に曖昧であり、「マイムの本質に反する」と評している。そして、「どちらかというとダンスに属するもの」としている。ダンスには、明快に受け取られるべき意味を観客は要求しないものだからだと言う。
それは違う、と私は思う。
チラシを手にする時から、作品のコンセプトは観客に投げかけられている。
抽象的と言うよりは観念的な謎掛けに対して、あくまで解答を求めたい。
「沈黙には二つあります。一つは言葉が全く語られない時のものです。もう一つは、おそらくは奔流のような言葉が語られている時のものです。この言葉はその下に閉じ込められているもう一つの言語について語っています(......)我々に聞こえる台詞は、我々に聞こえない台詞を指示するものなのです。それはやむをえぬ回避手段であり、他者を遠ざけておくための暴力的な、あるいは狡猾な、あるいは苦しまぎれの、あるいは嘲笑的な煙幕なのです」(ハロルド・ピンター(喜志哲雄 小田島雄志 沼澤洽治)「劇場のために書くこと」『ハロルド・ピンター全集1』所収、2005年12月、新潮社)
意味を振り落として奔流のごとく疾走するムーヴメントの本懐は、沈黙であった。
観客はそこに目を凝らして、声なき声を探す。
そこに何も見えないことに気付き、青ざめた。
外的世界と邂逅できない内的世界は、永遠に他者に知覚されることがない。
(3,048字)