『虚穴と反転
  ―飴屋法水『わたしのすがた』評』
  <森川泰彦氏>

・1 序

本稿は、まずこの作品を十分に享受するという観点から想定された理念的観客の鑑賞体験を通してその細部を記述し、続いてその全体構造を分析することでこれを補足する。

・2 経験的記述

・I 第1留

 にしすがも創造舎で受付を済ませ地図を受け取った観客は、まず目の前の旧運動場が第1留と題された最初の会場であることを知る。そこには大きく深い正円状の穴が掘られ、脇には立看板があるのだが、それに記されているのは信仰を貫くことの不安を神に訴えかける謎の文章である。未だ手がかりは何もなく、観客は大きな疑問を抱えたまま次の目的地へと向かう。

・II 第2留

次の会場は近くの和風平屋建てであり、「新調」された破れ障子など、適切な手入れがその汚れや傷みに廃墟の美すら与えるあばら家である。そして入口には、ここは昔お妾さんが暮らした家であったと記され、居間に飾られているのは古ぼけた男の白黒写真だ。それは遠く過去を遡る平凡な姦通の物語へと観客の想像を導き、第1留から続く人間の倫理的な「汚れ易さ」や「傷つき易さ」を強調する宗教的な言い回しがそれを脚色する1 。俳優の演技や舞台美術が与えるものとは大きく異なる細部は曖昧だが強固なイリュージョンが、「本物」の持つ確かな存在感によって否応なく紡ぎ出されてゆくのだ2 。そしてかつて庭には大きな「だいだいの木」があり、ここが「だいだいの家」と呼ばれていたとあるが、となれば、これはエデンの園の禁断の果実の表象ということにもなる。また庭には再び穴があり、観念的な罪への落下と物理的な穴への落下の平行から、それは落とし穴を思わせる。
しかし、そこに至って立ち上がったばかりの幻想は揺らぎ出す。あまりに出来過ぎた話ではないか。ここに橙の木などあったのか。本当に妾が住んでいたのか。何の証拠もないではないか。一度生じた疑いはたちまち広がり、これまでの空想の構築を土台から覆してゆく。とはいえ、決してそれを否定し尽くしはしない。ここには優れた「ドキュメンタリー演劇3 」がもたらす独特の芸術的体験、確かな表象を受け取りつつも、それが真実なのか虚構なのかが決定不能におかれて絶えず反転するという経験が生じているのだ4

・III 第3留

続く会場はかつての教会の半分とされる建物であり、ここもまた廃戸である。まず一階を進むと、そこには暗がりの中照明を当てられた雀蜂の巣が吊るされ、また床にそれがそっくり入る穴が掘られた薄気味悪い部屋が現れる。続く部屋では蜂の煩く飛び交う音が絶えず流され、そこに留まる人の不安を微かにしかし確実に煽り立てる。また母にまつわる説教文が掲げられた脇の和室に置かれているのは、まさに母への郷愁を誘う家具である。そして「懺悔部屋」が配置され、観客は一人瞑想に耽って自らの罪を記すことを求められるのだ。こうして、無宗教な普通の日本人なら普段は抑圧して省みることがない己の根底に潜む過去が、自らの手で掘り出されてゆくのである。
ここに至って作品は、本格的な作り物としての相貌を見せ始める。教会が登場することでキリスト教的な罪の主題が全面化する中、諸物があからさまに人為的に置かれることで象徴的な意味連関を形成するのだ。部屋を穴と見做せば、それらから成る建築は蜂の巣と言え、そこに出入する人間は蜂に重なる。また、社会性昆虫の蜂には階級や労働を見出しうることからも、人間(社会)への連想は元々強い5 。殊に不快な羽音を立てて飛び回り、他の昆虫を食する攻撃的な雀蜂は、巣の部屋に置かれた金庫6 と相まって倦むことなく争う利己的な人間の寓意となり、それが観念的理知的な罪深さの主題を物質的感覚的に肉付けする7 。さらに蜜蜂なら、橙と同様に甘美な享楽とも結びつく。こうして蜂たちは「わたしたち」へと変貌し、さらに観客は自らに向き合うことを通じて、その中に他ならぬ「わたしのすがた」を認めることになるのだ8 。また母の部屋は聖母マリアを想わせ、それは遡ってかの妾をマグダラのマリアへと重ねてゆく。
そして二階へ上がると、初めの部屋が展示するのは、戦前、後藤静香なる人物に率いられた希望社なる組織の歴史、天皇崇拝と耶蘇教信仰が混合した博愛主義運動を展開して広く尊敬を集めながら、それが性的金銭的醜聞によって反転する有様である。また次の部屋は、かかる運動に心酔しその終焉の頃に夭折した内藤定夫なる人物と、長生したその妻鈴子や娘らの家族史を伝えるのだが、観客がそこに置かれた写真の中に見出すのは、第2留と同じ男の顔である。欲と罪の主題論的連関は、かくして市井の女を突如歴史の中へと召喚し、清廉な経歴しか明示されない男の裏の顔を暗示するのだ。そして貼り紙の誘導は、神の子イエスをほぼ同年齢で亡くなる定夫に重ねてさる行為を連想するという涜聖へと、観客を惑わせてゆく9
しかし直ちに、ここにも第2留と同様の反転が待ち構えている。ここは本当に教会だったのか。あの妾は定夫のそれ(あるいは娘)だったのか。いやそもそも彼は実在したのか(さらには後藤や希望社でさえ)。「客観的証拠」たる古物の群れを眼にし「肉声」に耳を傾けながら、観客はより大きく「虚実10 」の間を行き来して、一度は確実に掴んだはずの光景がゲシュタルト的な変容を遂げる様を経験することになるのだ。

・IV 第4留

最後に指定された会場は病院であり、ここも既に本来の機能を停止している。一階を進むと部屋一杯に土が持ち込まれており、さらに別の部屋には、土が詰め込まれた白い布袋が敷き詰められている。この土袋の集合体が指し示すものは明らかだ。蜂の巣である。暗がりの中ペンライトの光に浮かぶ茶黒色を包む白い輪郭は、六角形ではないのだが、いわゆるハニカム構造が孕む不気味な美を放っている11 。こうして袋の一つ一つが一人一人の人間として立ち現れてくるわけだが、それが第3留の蜂(の巣穴)と決定的に違うのは、その徹底した生気の欠如である。袋に詰められたのは不動の無機物である土であり、最後には死体が還ってゆくそれの持つ存在感は、暗がりや静けさと相まって墓地のイメージをも招喚する。また、この鏡の他に何もない空間は、日常的に人が死に遭遇する建物の一室でもあった。かくしてこれらの土袋は、次第に死体の群れ、(生前の罪を抱えた)死者の集いと化してゆくのである。
この主題がはっきりするのは、二階に上がり、貼り紙が一人で入ることに加えて写真を撮らぬことを求める部屋に入った時である。そこではベッドの上に骨片が並べられているのだが、かかる要請はこれらが敬意を払うべき人骨であると示唆し、それは当然、かつてこの場で亡くなった特定の人間の存在を否応なく実感させる12 。またここは世俗の建物であったわけだが、至る所に顔を出すキリスト教臭に満ちた文章が、その宗教的時空を維持している。人の死は、当然、現世での罪に対する死後の審判―永遠の救済と劫罰―といった意味づけを帯びずにはいられず、観客は、この人物の死後の(つまりは現在に至る13 )運命に想いを馳せることになるのだ。直前の部屋の、和裁で生計を立てていたという鈴子と娘夫婦の名が付された機織り機の残像は、この死者に彼女らを(さらには妾を)重ねて想像的視覚的に劇的物語を完成させよと誘っている。直後の部屋も、「遺品」を並べてこの現実感を高めてくれるのだ。そして懺悔部屋で己の罪を認めた観客は、終にはそこに他ならぬ「わたしのすがた」、しかも嘘の混じったその姿を認めるに至るのである。

・V 第5留

こうして観念的な物語への没入を終えた観客は14 、それを物質的に裏付ける緊密な主題論的連関を十分に堪能しつつも、他方ではその押し付けがましい説教に辟易しながら建物を後にする。もはや鑑賞は終わったと信じ切り、飴屋は最近宗教に凝っているのかなどと首をかしげながら。ところが出口で配られたペーパーを開いた彼(女)らが眼にするのは、人を小馬鹿にした次のような文章だ15

「わたしは/無宗教、/無神論者です。」

観客はそこで、飴屋法水の声なき哄笑を聞きながら、物理的には回避したはずの「落とし穴」に、観念的(かつ主題論的)に転落したことに気付く。これまでも懺悔といった形で穴の底に身を置いてみたわけだが、今度の穴から仰ぎ見るのは顰めつらしい神の姿ではない。悪戯っぽい俗人の顔、正体を現した飴屋氏の「わたしのすがた」なのだ16 。そして単に、篤信から涜神へ、現実から虚構へ、作品世界全体が遡及的に反転するというだけではない。眼前に広がる作品外だったはずの病院の外がたちまち作品内へと反転し、それが同時に、それまでの神聖な世界と対比される世俗の世界という意味を纏うのである。ただただ美事だと言う他はない。


・3 総合的分析

続いて全体を振り返ろう。舞台をなす廃屋たちは、機能的に広がる大都市に点在するつかの間の陥没なのであり17 、それを埋めるべく到来する過去に虚偽が忍び込むことが体験変転の契機となっている。そしてこうした緻密な仕組みは、以下のような明快かつ堅固な構成を持つ18

・I 起承転結転

まず、第○留と称するそれぞれの場所(物質的現前)とそこで提示される物語(観念的超越)は、いわゆる起承転結(の変形)を成し、かつそれが人生の諸段階や時間軸に対応しているのだ。第1留(元学校、空き地)は無垢な人生の始まり(幼年の生)、すなわち「起」であり、以後絡み合いながら展開してゆく「困難な信仰の道」という観念的な課題=物語と物質的な「穴」という二つの主題だけを簡潔に示しつつ、埋めるべき謎という空虚を観客の心に穿つ。個人の場である第2留(元妾宅)は、それを「承」けて同様な穴を示し、謎を深めながらさりげなく若年の堕落を映し出す。そして社会の場である第3留(元教会)で物語は大きく「転」じ、罪という宗教的主題を強めながら個人の人生と社会の歴史を連関させ、さらには観客をその登場人物へと組み込んでゆく。ここには壮年の悔悟を含めうる。さらに第4留(元病院)は、汚辱の人生の終わり(と審判)、すなわち「結」であり、観客を老年の死(と死後)に向き合わせ、「過去」から「現在」に至って物語は終わる。と思えば再び「転」じる「第5留」があるのがこの作品の凄みであり、観客は「転」落し全ては一「転」するのだ。

・II 反転的往復

また作品全体を、「掘る」と「埋める」という穴をめぐる反転運動が、物質と観念の双方において貫いていると見ることもできる。第1留から第3留まで規模を縮小しつつ地に大穴が掘られていたわけだが、第4留では反対に部屋全体やその中の袋群に土が埋め戻されている19 。そしてこの作品において部屋や袋が人を意味し、人生が第1留に始まり第4留に終わることからは、人は内部を刳り貫かれることで生まれ(あるいは成人し)、その空隙を失うことで死ぬということになる。ここには、一生自らの中心に開いた虚空を埋め続けるのが人間だというニヒリズムを見出すことができ、それは現世に価値を置かない点で、第4留まで支配的なキリスト教の人生観とも親和するのだ20 。そして再び埋め戻され元に帰って大団円を迎えたかに見えた瞬間、観客は足元を「掘り」崩される。細密極まり運動溢れる傑作と言うべきである(2010年11月5、26日鑑賞、30日投稿)。

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1 笊に囲われた人工虫の鳴き声は、家に囲われた女の泣き声と、さらには後の巣を持つ蜂の羽音とも響き合う。
2 といって、このインスタレイションの「脱・演劇的装置」などという位置づけには何の意味もない。
3 この名称は誤導的だが従っておく。
4 こうした複雑な表象作用の構築の有無が、リミニ・プロトコルと、ただ「現実」を持ち込めば良いと思い込む凡百のその亜流とを隔てているのであり、特に『選挙戦・ヴァレンシュタイン』を比類ない傑作たらしめているのは、日常的現実とは全く異なるこの作用の豊かさなのだ(テクストを読めなかった『資本論』など失敗作だが)。なおその上映会で主宰の一人ヴェツェル氏に尋ねてみたが、彼は自分たちの仕事の本質が「虚構と現実の挟間」にあることに十分自覚的であった(2009年1月9日ドイツ文化センター)。
5 なお、人間社会を蜂の巣に例えたかの『蜂の寓話』(B・マンデヴィル)でも、悪徳が公益に美徳が災禍に「反転」する。
6 第4留でも現れる。
7 また十字架のイエスを連想させる大釘は、人を「傷つける」という壁に観念的に書かれた罪の主題を物質的にも体現している。
8 頻出する鏡もそれを補強する。それが映し出す「わたしのすがた」は、左右が「反転」しているという「虚偽」の忍び込んだ「真実」の像である点で、この作品の本質をも映し出す。またこれは、鏡像=虚像を己と取り違えるのが人間だとするJ・ラカンの精神分析理論とも符合する。
9 しかし、挫折を経て昇天するキリスト者のバロック的弁証法(≒貼り紙の示す世界)は、それさえも篤信へと止揚するだろう。
10 この「虚実」は普通の意味であり、昨年の劇評コンペで用いた〈虚実〉とは無論異なる。
11 二階でも、ハニカム状のネットや放射状に並ぶ大釘の頭が形作る擬似ハニカムが見られる。
12 また、これらに限らず造花を初め屋内の諸物は「死」んでおり、枯死/紅葉した蔦を境に、屋外の「生」ける水草や小魚と対照をなす。
13 ここに置かれたラジオは、一階のテレビと同様、現行番組を放送することで辺りに「現在」を波及させる。
14 3階の最後の貼り紙は、終了を告げ帰宅を呼びかけていた。
15 入口で、貰い忘れぬようにと置いてあったペーパーを持って行こうとしたら、帰りに渡すと制された。観客がこれを読むのは必ず建物鑑賞後なのである。
16 今度の涜聖は、弁証法的再反転不能の絶対的不敬である。
17 ここから、観客に手渡される穴を空けられた地図がいわゆる「紋中紋」だと分かる(と思っていたら、二回目の鑑賞時の地図に穴はなかった)。
18 その「設計」がどこまで意識的かは不明だが、無意識も含めて作家の才能と言うべきである。
19 最初の部屋の土は芝混じりであり、第1留の穴の中身だと推量「させる」。
20 人は言語を獲得することで己の存在を失い、生涯それを取り戻さんとする欲望に駆られるとみるラカン理論との照応も見出しうる。