(執筆者が関係者のため、審査対象外、掲載のみとさせていただいております)
マニュアルないし手引書(てびきしょ)とは、ある条件に対応する方法を知らない者(初心者)に対してその対応方法を示し、教えるための文書である。人間の行動や方法論を解説したものとしては、社会や組織といった集団における規則(ルールなど)を文章などで示したもので、一般に箇条書きなどの形でまとめられ、状況に応じてどのようにすべきかを示してある。また取扱説明書(とりあつかいせつめいしょ)は、機械装置や道具といった工業製品などの使用方法を説明した印刷物などである。図と文章などを使って、解り易く解説してあるのが一般的である。(wikipediaより)
JR山手線の各駅周辺29ヶ所に任意の「避難所」を設定し、東京の時間を刻む都市とその不可視のコミュニティと観客が出会うシステムを構築するという「完全避難マニュアル 東京版」。「避難」とは、「コミュニティ」とは、「マニュアル」とは。
行動や方法論を示した手引書やマニュアルは、状況に即してどのように対応すべきかを説明したもので、これは所定の社会や組織(企業などを含む)における各個人の行動を明文化して示し、全体に一貫性のある行動をとらせるものである。
組織が巨大化すると構成員の数も増え、相対的にそれらの対応は無視できないコストを発生させる。その構成員の各々が自身の役割を理解している必要があり、これらを個別に口頭で言い聞かせて訓練し、所定の役割を行わせることは労力が必要ともなる。これを補助し労力を軽減させるのが手引書の文章である。組織内での行動が状況に応じてまとめられており、最初はその都度参照し、それらはできれば暗記し従うことが求められる。
これら手引書やマニュアルは様々な状況を想定して、それらの状況に対応する方法を示したものであるが、往々にして想定外で記載されていない現象も発生する。この場合には、問題解決のための手段として組織の統率者(または責任者)がその都度判断し個別に指示を行うなどして対応するが、優秀な手引書の場合はそういった漏れ落ちが少ない。組織に柔軟性をもたせる場合には、事細かに規定が存在すると活動に制限が発生し、かえって邪魔になることもあるため、あまり細かく定めないケースもある。
似たような「予め想定して明文化しておく文章」にはガイドラインが存在する。ただしこちらは状況への対応方法が列挙してある訳ではなく、所定の状況における考え方を予め指し示しておくという性質があり、これは手引書のように状況ごとに予め定められた行動のみに限定する性質は無い。手引書の場合は具体的な行動内容が示されているため、理解が容易く従い易いが想定外の状況に対応させ難く、ガイドラインの場合は考え方や理念という抽象的概念を理解しなければならないため扱いが難しいが、想定外の状況には類似する部分から類推して対応できるなど柔軟性がある。(wikipediaより)
「完全避難マニュアル」に「避難所」における各個人の行動は明文化されていない。web上で質問によって案内される、または自分で選択した「避難所」へまず行かなくてはならない。「マニュアル」が観客に与えてくれるのは「避難所」に関する多少の情報と、「避難民」という名札と、「避難」という捉えどころの難しい行動だけである。正直困惑する観客も多数いたことだろう。行けば何かが起こるらしいが、何が起こるかはわからない、もしくは何も起こらないのかもしれない。不親切な「マニュアル」に導かれて観客は見知らぬ「他人」や「場所」に自主的に出会うことを求められる。いつものように劇場で客席に座って舞台が始まるのを待っていれば良いわけではない。この作品は舞台という空間を「脱ぐ」ことで「演劇」を劇場という指定された空間から解き放ち、日常の中に「演劇」を隠してしまっている。その隠された「演劇」を「避難所」で出会う「他人」「場所」を通して発見する。それは「他人」「場所」に合わせて「装う」自分である。普段の生活の中で、私たちはさまざまな関係の中で生きており、その異なる関係に応じて「装う」。TPOを考えるようなものであり、「装う」ことに失敗すると恥をかいたり、空気が読めないと言われたりするほどに日本の社会では「装う」ことを重視している。本来の自分なのかどうか不鮮明な感覚もある「装う」自分が見え始めてくるとき、「避難所」における「他人」「場所」と自分との関係が見えてくるときに「演劇」が発見される。「避難」という行動が拡張された「演劇」に繋がっていたのである。
キャラクターの共有によって新たに発生する共同性は、そのキャラクターの設定を承認するための小さな物語によって強く規定されている。そのため誤配を許容せず、排他的な共同性として機能する。たしかにそこは、技術的には全世界から接続し得るコミュニティかもしれない。しかし、物語レベルではまったく開かれていない。そのキャラクターの持つ設定を承認する者だけが接続できる、誤配のない小さな物語なのだ。
(宇野常寛 著「ゼロ年代の創造力」より)
この作品はwebの世界にまで拡張されている。そもそも入口がwebサイトであり、この不親切な「マニュアル」の救いもまたwebであった。捉えどころの難しい「避難」という行動をした「避難民」たちはその行動を複数の観客で共有するためにwebに戻ってくる。観客の体験こそがものを言う作品であり、webに戻ってくることを誘導するような仕掛けもあり、webに戻ってくる動きが一層強かった。まるで自分の行動を確認するかのように戻ってくるのである。作品側が用意した報告サイトよりもTwitterが盛上りを見せたのはTwitterのもつ即時性、流動的に流れていく時間軸によって多方向で双方向なやり取りが生まれるからであろう。自分の「避難」の答え合わせをするかのごとく、ハッシュタグ「#hinan」に集まり、そもそも答えがあるのかどうかも謎である様々な「避難」を共有し、自分の「避難」にフィードバックしていく。
そのハッシュタグ「#hinan」上にコミュニティが形成されていく様子が見られた。「避難」の答え合わせ的報告という点から情報の共有、「避難民」同士の交流が盛んになり、ハッシュタグ上のみでなく「避難所」を利用した交流にも発展した。「コミュニティ」が形成され「避難民」同士の交流が盛んになる一方で、私は違和感を感じるようになる。それは「コミュニティ」というものに対しての違和感なのかもしれないが、排他性というものを感じたのである。もちろん排他性があるからこその「コミュニティ」であり、排他というもの(それが攻撃に向かうか、逃避に向かうか、囲い込みに向かうかは様々であろうとも)は「コミュニティ」が必ず通るものだとは思うのだが、その「コミュニティ」の特性とも言える排他性が浮かび上がってくるのは面白い体験であった。もちろん「#hinan」上で意識的に排他が行われていたわけではない。しかし無意識のうちにTwitterを使う「避難民」とそうでない「避難民」との差ができていただろうし、「#hinan」に違和感を覚えていた「避難民」もいたはずだ。「避難」という不鮮明な行動を共有する避難先としてのweb上に「コミュニティ」が生まれることでそこへ参加することへの抵抗を感じる、いうなれば「難民」が生まれたことであろう。また形成された「コミュニティ」の中からも差が生まれていくのも伺えた。「避難民」たちがパス3枚という条件を満たして、実際に集まる恵比寿避難所。そこへ避難できなかった「#hinan」上の人々のつぶやきにそれを感じた。恵比寿避難所は言うなれば「#hinan」がネット上の世界から現実の世界へ移行されたような場所であり、「#hinan」からさらに「難民」が生まれたように思えた。
「難民」という位置を否定しているわけではない。作品の中に潜り込んで作品を共有する視点、その様子を眺める視点。一つの作品の中で「コミュニティ」が形成され、その「コミュニティ」を色々な視点が見つめ、それぞれの形で関わっていく様子、観客・作品が何重にも積み重なる構造が面白く、またその「コミュニティ」への関わり方は各「避難所」との関わり方に類似し、その構造が連鎖しループし、現実とwebの世界が並走していく。この「コミュニティ」をめぐる多重な構造こそが作品の要だったのだ。その構造ももとをたどれば「個人」と「コミュニティ」の関わり方、そこへ集約されていく。「コミュニティ」「避難所」、そしてこの作品自体がそれぞれ「≒」で結ばれ、それぞれに「個人」としての観客がどのように関わるのか、そのことが様々な形で浮かび上がってきていた。
観客ドラマトゥルギーは、観客の意向や考え方を尊重し、造り手と受け手を双方向的につなぐものであるが、それは観客の思考に迎合することではない。むしろ観客がより有意義な芸術体験をしたり、そのような芸術体験により、多くの人びとが演劇と社会に関心を抱くように取り組む試みが、観客ドラマトゥルギーのあるべき方向性である。
(平田栄一郎 著「ドラマトゥルク 舞台芸術を進化/進化させる者」より)
「完全避難マニュアル」は「マニュアル」でありながら「避難」に対して何も明文化はしていない。観客が自ら「避難民」となって「避難」を体験し、それをどう消化するか、観客に委ねられている。しかし「完全避難マニュアル」は確かに「マニュアル」であったと私は考える。観客を身体的に縛り付ける劇場・客席から解放し自由を与え、その中で能動的に作品に参加することを促し、考えることを促した。そこに正解があるのかはわからない、それゆえに「コミュニティ」が形成され意見が交換された。そのなかで観客は作品に対して、それを取り巻く社会に対して新たな視点を発見していったのではないだろうか。生きていくうえで決して不可欠ではない芸術がかけがえのないものとしてあり続けるための、関わり方を作品化するということで「完全避難マニュアル」は示したのではないかと思う。様々なドラマトゥルギーが未発達・発達途上の日本において、観客と作品との間を新しい「演劇」の形でつなぎ、環境・システムを構築したこの作品は芸術体験への「マニュアル」だったのではなかろうか。
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引用・参考文献
wikipedia(http://ja.wikipedia.org/wiki)
宇野常寛 著 『ゼロ年代の想像力』(2008年/早川書房)
平田栄一郎 著 『ドラマトゥルク 舞台芸術を進化/深化させる者』(2010年/三元社)