『表現の、その先へ』
  <木村彩花氏>

表現でもなく、再現でもない。それらの狭間にありながら、そのどちらをも超越してしまっている何か――それが、私の印象だ。観劇後、冷たい雨に打たれ、暗い夜道を歩きながら、私は目の前に、先程までとは異なった世界が広がっているかのように感じた。
ロドリゴ・ガルシア氏による舞台作品『ヴァーサス』は、私の世界観を変えた。彼の作品は新鮮であり、パワーと情熱があった。しかし、実に不快なものだった。あらかじめ断っておくが、私は敬意をもって彼の作品について述べる。

 『ヴァーサス』は二人の男の、ピザについての比較的穏やかな言葉から始まり、ロックとフラメンコの音楽を挟みながら、一貫性のないエピソード、いや、断片的な行為が連なっていく。キスをする、スパゲッティを食べる、ガムをかむ、死体に化粧を施す――それぞれの行為は孤立していて、関係性は全くないといってもよい。それらの行為は自身で独立しているのではなく、各々が完全に孤立しているのだ。ガルシア氏は本作品のパンフレットの中で、人間の根源的な孤立について言及している。「大衆が何かを共有できる、あるいは通じ合える瞬間が本当にあるのかどうかというと、究極的に人間は孤独だと思っています」。このような人間に対するガルシア氏の捉え方を反映しているかのように、『ヴァーサス』という作品の中で生きる人間たちは、一人ひとりが見事に孤立している。他者との関係は極めて薄く、舞台はほぼ、個々のモノローグで展開されていく。ダイアローグは極端に少なく、それと思われるものもどことなくよそよそしく、ちぐはぐで空虚さが漂っている。まるで同じアパートに住んではいるが、すれ違い様に無関心な挨拶を交わすだけの隣人とでもいうような、希薄な関係――お互いがお互いにとって、無の関係でしかない。
他者との関係という点において、本作品の中では肉体的な接触以外に見受けられるものはない。そして、それは時に男女の性を超えるものでもあるのだが、常に一方的なものでしかない。他者への思いやりは感じられず、本能的な欲求だけがその場を埋め尽くしている。なんとも侘びしい光景だった。
 しかし、その人間の本能だけが渦巻く空間を前に、背景には詩的な字幕が流れていく。それは人生や愛をテーマとして掲げたもので、舞台上の過激な光景とは逸脱した内容のものである。あまりに俗なものと、あまりに高尚なものとの共演。観客はどちらに目を向けるのだろうか。その選択は、これもまた相互に孤立している、個々の観客に委ねられているものなのだろう。

本作品を観客として観たとき、私はその斬新さに惹きつけられた。暴力的ではあるが、生まれて始めて感じる新しい表現世界に驚きと感動を覚えた。目の前に広がる芸術的空間が新鮮で、未知なるものに思えたからだ。しかし、私自身も役者として生の舞台に立っているということから、私には、舞台と対峙する観客と、舞台上にいる役者という二つの視点が共存している。往々にして、後者の視点が多くを占めてしまうわけだが、そのとき、この作品に対する捉え方は一変する。暴力的なまでに魅了されていた表現は、現実的な恐怖に変わる。もはや、卓上の綺麗事を言ってなどいられない。『ヴァーサス』は、表現者としては、決して踏み入りたくない表現領域である。大衆の面前で、自分をさらけ出し、どうしようもない孤独感と疎外感の中で、何もかも露わにしなければならない。他者との関係を失い、言葉さえも空しく響く混沌とした世界、そんな世界で生きていくことに、果たして耐えられるだろうか。
舞台の外にいる者としての視点と、内にいる者としての視点が交錯する中で、私はある種の漠然とした不安を感じた。そして、あまりにも不快なこの劇的世界が、単なるお芝居では終わらないものなのだと確信した。
そこには抽象化された現実世界が広がっている。人間同士のささやかなつながりさえも断絶される、必要以上に物が消費される、人間と物との境界線が曖昧になっている、そんな現実を本作品は本能に従って痛切に批判している。観るものにとっても演るものにとっても過酷な舞台である。決して美しくて素晴らしい舞台ではない、むしろ、卑猥で汚らわしい舞台であると言える。しかし、私はガルシア氏の芸術に対する欲求と期待とを強く感じた。それは、瀕死のものが水を求めるような渇望とでも言えるだろうか、すさまじいまでの情熱を、私は全身で感じ取った。

演劇は人生である。私は演劇をこのように位置づけている。一瞬のうちに何らかの輝きを放ち、次の瞬間には跡形もなく消え去ってしまうという舞台芸術の本質と、観客という不可欠な他者の存在によって支えられている、意味づけられているという点から、演劇には、人の一生に通じるものがあると捉えているからである。古代ギリシャに起源をもつ演劇は、高貴な人物の悲哀を扱った悲劇から、道化による庶民的な喜劇、大戦による人々の疲弊を反映した不条理演劇、リアリズム演劇など、それぞれの時代と社会における様相を、少なからず投影しながら発展を遂げてきた。
サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』などに代表される不条理演劇は、一貫した筋のない、ある種の混沌として演劇界に登場したわけだが、意味深長で画期的な作劇であると評価され、新しい演劇、前衛的な演劇として演劇界に迎えられた。私は個人的に、不条理演劇には抵抗があり、必ずしも好ましいとは思っていないのだが、ベケットやウージェーヌ・イヨネスコなどの不条理演劇作家の巧みな手法には目を見張るものがある。そもそも不条理演劇とは、世界大戦後の国土の退廃、人々の疲弊といった混沌とした世界状勢の最中に生まれたものであり、その強い影響を受けたことは周知のことであると思う。
私は、この時代の不条理演劇と、『ヴァーサス』とは似通った作品なのではないかと考える。それは、どちらもある社会的な背景のもと、それらの現実社会を独特な作劇法で映しきったという点においてである。ただし、『ヴァーサス』が反映した社会的背景は、前者とは異なるものであり、それよりも恐ろしいものなのかもしれない。すでに前述したように、それは、人間関係の断絶、大量消費、曖昧な物質社会などである。これは、大戦による疲弊よりも、ずっと人間的な、根源的な問題ではないだろうか。

 ガルシア氏の描いた劇的世界が、私に与えた不快感は甚だしい。本作品による現実の表象を考えると、嫌悪感だけではなく恐怖感さえも感じる。そして、それ以上に、その演劇の力の大きさを、生の芸術だからこそ感じられる生きた人間の鼓動を、改めて感じるのである。ガルシア氏は、本来虚構であるはずの劇的世界において、われわれの現実世界を見事に抽象化し凝縮化することに成功した、素晴らしい演劇人である。彼の生み出す、目を背けたくなるような劇的空間は、観客が大人しく座っているだけの生易しい場所ではない。
 これほどの苦痛――快い苦痛と言ったほうがよいのかもしれないが――を感じたのは、私にとって初めての経験であった。しかし一方で、私は夢でも見ていたかのような錯覚もまた感じたのである。絶望というよりも求めているものが何なのかさえ分からなくなってしまった『ヴァーサス』の世界の中で、唯一救いとなるものは、わずかに垣間見える詩的な美しい断片である。それは言葉であったり、光であったり、音であったりする。パンフレットの中で述べられているように、ガルシア氏は演劇に「詩的なるもの」を求めている。本作品中には完全なる美や詩的なるものは存在しないのだが、一つひとつのかけらが、混沌とした劇的世界に幻想的なイメージをもたらしてくれるのである。私は、まさにこの点においてガルシア氏に多大な敬意を表するのである。
彼は、演劇への、舞台芸術への底知れない欲望を抱いている。そしてまた、大きな期待を寄せている。その独自の手法と、湧き立つような熱意に私はすっかり魅了されてしまった。
演劇の可能性は限りない。人間が一人ひとり異なるように、演劇もまた多種多様なものがあってよいのである。そこにこそ演劇の魅力と、未来が詰まっているのである。ガルシア氏の『ヴァーサス』も、演劇の新たな一歩と成り得る。そして、『ヴァーサス』の観客が、一見すると掴み所のないこの作品と向き合い、その意味を捉えようとするとき、われわれの現実社会も一歩を踏み出す契機になるだろう。万人に伝わるような明確なテーマを直接に描き出すのではなく、観客が能動的に考えることで、隠蔽されたテーマが見えてくるのである。この点で、『ヴァーサス』は他者を必要とする――溢れ出す情熱を受け取ってくれる観客を。第四の壁を切り崩し、舞台と客席が真の交流をするとき、それはもはや表現の領域を超えるのではないだろうか。表現の、その先へ、果てしなく広がる演劇の可能性は計り知れない。
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