演劇を見る際に、どの程度事前の情報が必要か。今回の舞台の創り手の意図はどこにあるのか。見る人の経歴はさまざまであるが、創り手はどこに焦点をあてているか。万人向けとしたいのか、一部の人にわかってもらえればよしとするのか。今回、私はアルトーという人物に惹かれる一観客としての経験を述べたい。そうすることが演劇を広く深く理解すること、つまり演劇を楽しむことにつながることと思う。
アントナン・アルトーは1896年に生まれ、1948年に亡くなったフランスの詩人であり、「残酷演劇」を提唱する演劇人である。今回の舞台の使用テクストは、ラジオ放送用テクスト『神の裁きと訣別するため』と、テクスト・シュルレアリスムより『ミイラの書簡』、そして手紙が六通である。舞台は上手奥のテーブルに、ラジオ放送をする人たち。正面のスクリーンにはアントナン・アルトーの映像。その顔は憂いとおかしみに彩られ、顔一つと五分の三を見せている。床面は矩形の広がりが縁どられている。
「1948.2.24(火)」の表示とともに、ラジオ放送が始まる。台詞はなめらかには進まず、つねに引っかかりをもち、身体が動く。矩形の内側へ足を一歩踏み入れると、そこは水が張られている。水のなかに入ることは、新しい自分を生みだすのか。「残酷」、「無限」、「無」、「意識」、「無意識」のことばが耳に残る。台詞と所作と映像と音が重なり、問いかけが続く。一人の声から数人の声まで、独白から重唱までさまざまの形態で畳みかけられることば。突如、「珍島物語」の歌声が空気を突き破り、場面を一転させる。そのあとにつづく、意味をつたえるための言語ではなく、ただ発せられる音声のつながり。ときに判別できる単語が突然差し挟まれる。やはりこれも言語の一種ではないかと、不意に気づかされる。その流れ、溢れる声に圧倒されつつも、次第にそのうねりに、リズムに溶かされていく。スクリーンを透して浮かぶシルエットの女の、のびやかに解放された身体の動き。ダンスのようでもあり、空気と自然に戯れているようでもある。ひとりの男はこちらを見据え、回転しつつ台詞を続け、現代社会を批評し、われわれに問いかける。紙切れを手に持ち、パタパタと翻して手旗信号にして読みあげる女は、身体全体の動きで痛切に心情をさらけ出す。
「1945.9.10」の表示。つぎつぎとコ―トを水に叩きつける。コートそれぞれの重さを拾いあげて、背負う女。コートは社会規範、取り繕う外観、そして現実に各自が抱えている身体をもあらわすのか。「たましい」と女は口にするたびに、魂を手でこねては空間に放りだす。知覚のまやかしか。つづくマニフェストでくり返される「残酷」のことば。アルトーへの問いかけは、どこへ向かうのか。アルトーは[残酷の演劇(第一宣言)]で、「戯曲を決定的で神聖なものと考えて、いつもそこにもどるかわりに、何よりも大切なのは、演劇の戯曲への従属を打破し、動作と思想との途中にある一種の唯一独特な言語の観念を再発見することである。この言語、それは対話体の言葉の表現の可能性と対立した、空間における動的な表現の可能性としてしか定義しえない。」と述べている。
今回の舞台は、言語の表現方法が実に多様である。台詞が所作とともに表現されるだけではなく、所作を超えた動き、音、映像と複雑に絡み合う。ときに台詞は意味内容をつたえる役目を放棄し、音そのものとなり、そのリズム、抑揚、強弱、高低で音曲のようになる。それでも不思議なもので何かがつたわる。言語が生まれる過程を逐次実演するのを観察しているようでもあり、またその過程に身をゆだね、ともに体験し、ともに揺らぐことで積極的に楽しむ。
演劇は共感を求めるとともに、異化効果をも求める。「アメリカの公立学校で公に行われている中でも一番驚くべきこと・・・・・新入生たちから少量の精液をとり、それを貯蔵瓶に入れ、やがて行われる人工授精のあらゆる実験に備えようというのだ。」と述べられているこの状況は、現実に起こっていることである。我が国からも人工授精をするため渡米し、医学生からの提供を受けている。人工授精で生まれた子供が今や成人して医師となり、自分のアイデンティティを求めて行動し始めた姿が、テレビで取りあげられていた。生む側の親の論理と、生まれた子の側の論理の衝突が生じている。この問題からさらに、カズオ・イシグロの小説『私を離さないで』で描かれたクローン人間の問題も、いずれ生じかねない。つねに芸術は社会の先頭に立ち、将来の問題を提起し、警告を発してもいる。その当時は理解しがたいことも、時を経て、納得のいくことも多い。アルトーの伝えたいことは、何であったのか。
アルトーは[言語についての手紙]で、「「生」というかわりに、あるいは「必然」というかわりに、私は「残酷」といいたいのです。それは私にとって演劇は行為であり、絶え間ない発散であり、その中には枯渇したものはなにもなく、真の行為、つまり生き生きとした行為、つまり魔術的な行為ととけ合うものだということを、特に示したかったからです。」と、述べている。「残酷」とは、辞書が定義する「人や他の生き物に対する仕打ちが、無慈悲でむごいさま」という荒々しいものでも、一方的に傷つけるものでもない。それは余分なものを捨て去り、真摯にものごとに向かい合う姿勢を指している。幼少時に脳脊髄膜炎を患い、後年、精神病院で苛酷な治療を受けることにもなったアルトーの生きることへの切実な欲求、表現とはいえないか。
生きることは身体をもつこと、と定義するなら、ひとは生きるために食べ、排泄する。これが[糞便性の探究]となって、アルトーはこう述べる。「二つの道が彼に与えられていた。無限の外部への道と細々とした内部への道である。そして彼は細々とした内部を選んだ。」が、そのしめつけからの解放として、神を否定する。そして「十字架から降りてきた人々の一団が・・・鉄、血、炎と骨で武装し、〈不可視のもの〉を罵倒しながら進んでいく 《神の裁き》を終えるためである。」と結ぶ。つぎの[闘いが提出される・・・]では、「秩序の背後のもう一つの秩序を知っているわれわれ」は、無限とは何か、意識とは何か、と問うていく。「私の自我の内部の無の身体」から「私の身体の現存」、そして「私はすべてを爆発させた 私の身体に人は決して触れることはできないから。」という状態に達する。また、[結論]ではこう述べている。「人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう。そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。まるで舞踏会の熱狂のようなものでこの裏とは人間の真の表となるだろう。」
「器官なき身体」を創ることはできるのか。水をたたえた矩形の広がりの縁に横たわり、顎まで水に浸かるイメージを示したうえで、それぞれがコートを水のなかに脱ぎ棄てるのは、真の自由に到達するためか。コートの下の衣服はその人となりをあらわし、むき出しの個性をもあらわす。そこからどんな一歩を踏み出せるのか。アルトーのいう「器官なき身体」とは、単に「たましい」のことなのか。エピクロスの唱えるように、原子からなる自然界の事物から流出するエイドラが、同じ原子からなる魂を刺激することで感覚が生じる、と考えるなら、感覚を第一義とするアルトーの思想は理解しやすくなる。ひともさまざまの原子の総体であるから、「生」とはたまたまひとつの身体という形態をとって、限られた時間を生きることである。死とはそれが個々に分散し、自然界に戻ることである。そのとき身体は「器官なき身体」となり、精神の真の自由を得るのではないか。その状態を演劇の舞台で実現することを、アルトーは願ったのではないか。そのための儀式が、演劇ではないのか。
今回の舞台はその実験的工夫をほぼ実現できた、と思う。ただ、あまりにも前半が新鮮で、衝撃が強かったせいか、後半のマニフェストでは期待したほどの効果を実感することができなかった。舞台と客席がたがいに語りかける、双方向の動的な力関係が欲しかった。舞台はすべてとなりうるのか、きっかけだけで充分なのか。こちらの一方的な思いこみか、観客は礼節をわきまえ、静かに舞台を受容しているように思えた。礼儀正しい、落ち着いた舞台体験であった。奇をてらうことが喜ばしいことでは決してないが、いまの日本の社会、若者の状況を象徴してはいないか。
「アルトーの「残酷演劇」は肉体的、精神的、倫理的大変動を引き起こすことで観客を急襲することが意図された。」とマーチン・エスリンは述べている。哲学的問題の追究にしては、舞台の後半はカタルシスを求めてはいないが、こちらに突きつける鋭さと厳しさに欠ける。始めは新鮮に思えても繰り返される所作は、やがてその刺激が薄れていく。賢い客に、かなり小綺麗に調理された料理を供した、ともいえる。ときには素材をそのままテーブルに載せてもよかったのではないのか。「戦争を知らない子どもたち」といわれた世代としては、身体が裏返しになるような舞台体験を無意識に求めていたのかもしれない。
アルトーの述べる、「人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。まるで舞踏会の熱狂のようなものでこの裏とは人間の真の表となるだろう。」という瞬間を求めることは、時代遅れの欲張りというものか。ひとついえることは俳優の熱演に比して、上演時間が長すぎたのではないか。たとえ時間が短くなったとしても、従来の台詞中心の演劇とは異なる演劇形態でもあり、やむをえないのではないか。そうすればもっと厚みのある時間になりえたのではないか。これからの演劇を考えるうえで、唯一気にかかったことである。
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[参考図書]
『神の裁きと訣別するため』1947 A・アルトー 河出文庫
『演劇とその形而上学』1932-35 アントナン・アルトー 白水社
『わたしを離さないで』2005 カズオ・イシグロ 早川書房