巨大なるブッツバッハ村――ある永続のコロニー

作品について

巨匠マルターラー、「物語なき時代」に響く奇跡の音楽劇

ポストドラマ演劇の巨匠と評されるスイス人演出家クリストフ・マルターラーが、その代表作にして傑作の一つ『巨大なるブッツバッハ村―ある永続のコロニー』を携えて初来日公演を果たす。

極度に引き伸ばされた緩慢な時間、空虚に繰り返される身振り、美しくメランコリックに響く音楽と言葉-ー。演劇、オペラ問わず、ヨーロッパの社会状況を反映するマルターラーの演出は、滑稽さと哀愁が同居する独特の空気感に包まれ、見る者を常に爆笑と沈黙の両極へいざなう。

もともと自身も音楽家であるマルターラーの作品の最大の特徴は、先鋭的であると同時にコミカルな音楽劇であるということ。驚くべき歌唱力で俳優たちが歌うのはクラシックからポップスまで多様な楽曲。その歌詞やメロディーそのものが劇の流れを牽引する。さらに、マルターラー作品に欠かせない舞台美術家、アンナ・フィーブロックが手がける空間構成や装置は、作品の世界観や批評性をそのまま体現しながら、そのドラマトゥルギーを方向づけていく。新聞や書物からコラージュされたテキストはドラマトゥルクとして名高いシュテファニー・カープによるもの。音楽、美術、そしてテキストが、恐ろしく緩慢に引き伸ばされた時間の中で有機的に絡み合い、「物語なき時代」の新しい演劇の形を私たちの前に指し示すだろう。

『巨大なるブッツバッハ村』 - リーマン・ショック後の「終わり」の風景?

2009年、ウィーン芸術週間で製作された本作は、その前年9月のリーマン・ショック後にヨーロッパに漂う不安感を、マルターラーならではのアイロニカルな視点で描く。

中部ヨーロッパの典型的田舎町を思わせる巨大な空間。リビング、オフィス、銀行、ショッピング・モール、倉庫、ガレージ・・・・・・村のさまざまな機能が寄せ集められた、不可解な室内。すべての家具には「売却済み」の札が貼られている。銀行では行員の努力むなしく金庫は閉ざされたまま。ここは「破産後」のコミュニティなのか?

ここに暮らす村人たちは、押し寄せる危機に対する不安を抱え、何とか自らの「財産」と「安心」を守ろうとする。個人情報が収集され、賄賂やスパイ活動が横行する中、彼らは防犯カメラや警報装置を使いお互いを監視し合うーー。

村人たちの口からは、哲学書、新聞、経済理論書などから引用されたテキストの断片が語られる。時には経済破綻のあおりを受けた「敗者」の手記を、時には資本主義を糾弾する思想の引用を、彼らは淡々と無表情に読み上げていく--。

閉塞し、人間関係が希薄化するこの村で唯一全員が集うのは、突如始まる合唱の時間だけ。民謡からオペラ、ロマン派の歌曲、流行歌、ポップスまで、村人たちは、複雑な和音を、コミカルな振付を交えながらしかし、メランコリックに響かせる。

この「巨大なるブッツバッハ村」では、村人たちが共有する「大きな物語」はない。ただ、リーマン・ショック以降の「終わり」の風景が、彼らの口ずさむ音楽やテキストの断片の中に浮かび上がってくるだけだ。いまだ世界が直面し続けている経済危機とその不安を描いた本作は、縮小する時代を迎えた日本の観客にどのように響くのか、注目が集まる。

使用楽曲

作品の背景にある金融危機に対し、マルターラーは「権力」、「自由」、「貧困」、「憧れ」、「悲しみ」をテーマとした様々な時代とジャンルの楽曲を選曲。公演の中では以下の楽曲が使用されている。

■C.モンテヴェルディ:オペラ「ポッペアの戴冠」よりアリア「ただあなたを見つめ」(1642/1643)
■J.S. バッハ:「コーヒーカンタータ」(1734/1735)より、「猫にゃねずみ捕りがやめられず」「マニフィカト」(1723)より、アリア「Deposuit potentes」(権力ある者をその座から引き降ろし)、カンタータ「目覚めよ, とわれらに呼ばわる物見等の声」より前奏曲(F.ブゾーニ編曲)
■L.v.ベートーヴェン:オペラ「フィデリオ」 (1805) より、「囚人たちの合唱」、アリア「なんと暗い闇なのか」より
■フランツ・シューベルト:「水上の精霊の歌」(1816)、「冬の旅」(1827)より
■R. シューマン:「詩人の愛」 (1840) より、「明るい夏の朝に」、「僕は夢の中で泣いた」
■グスタフ・マーラー:第8交響曲(1910)より神秘の合唱「すべて移ろい過ぎゆく無常のもの」
■E.サティ「貧者のミサ」 (1895) より
■A.ベルク:「声楽とピアノのための4つの歌曲」(1908/1909)より「心の痛みは当然のこと」
■F.P. フィーブリッヒ:「In der Fassbindergass'n (樽小径にて)」
■ノルベルト・シュルッツェ(作曲)/ハンス・ライプ(歌詞):リリ・マルレーン(1939)
■ビージーズ: 「Stayin' Alive」(1977)

特別寄稿

新野守広 終末の既視感の柔らかい手触り ― クリストフ・マルターラー (抜粋)

彼の代表作について語ろう。それは、1993年にベルリン・フォルクスビューネ劇場で上演された『そのヨ-ロッパ人をやっつけろ!(Murx den Europäer! Murx ihn! Murx ihn! Murx ihn! Murx ihn ab!) ― クリストフ・マルターラーの愛国的な夕べ』という人を食ったような長いタイトルの公演である。Murx(ムルクス)の発音は、どこかカール・マルクスを思わせる。ところがこの舞台は過激なタイトルとは正反対に、ドイツ史の記憶と忘却に緩慢さの美学とでも呼べるユーモラスな表現を与えた静謐な舞台だった。フィーブロックが制作した東ドイツの待合室とおぼしき大きな室内に、11人の男女の俳優が8つのテーブルに分かれて座っている。彼らは昔のドイツの愛国的な歌や社会主義の労働賛歌を歌いながら、ブザーが鳴ると整列して舞台奥の洗面所に入り、しばらくして再び戻ってきて自分の席に座る。なんと2時間の上演時間の間、舞台上ではこの動作が繰り返されるだけ。しかしまったく退屈しない。
それは、すべては崩壊の過程の途上にあり、この過程を止めるものは何もないかのように舞台が進んだからである。ベルリンの壁が崩壊し、ドイツが愛国心に盛り上がったのは、この公演のわずか3年ほど前。しかし社会の現実は厳しかった。破産した東ドイツを豊かな西ドイツが吸収合併する形で行われた再統一は、社会生活にさまざまな軋轢を生んだ。当時のベルリンでは、東西市民の格差をはじめとして、生活のきしみが露わだった。ところがマルターラーの舞台では、壁に貼り付けられた「時を止めないために」というかつての社会主義の進歩を示す標語でさえ、一文字ずつゆっくりと剥がれ落ちる。緩慢さは極度に誇張され、眠りこけて、椅子から転げ落ちる俳優もいたほどだ。この演出は冴えていた。彼らはゆっくり食事をとり、紅茶を飲み、繰返し歌い、遠くから聞こえてくるワーグナーの歌曲に静かに耳を傾ける。すべては奇妙に滑稽で、ユーモラスで、しかももの哀しい。

台本より (抜粋)

翻訳:萩原ヴァレントヴィッツ健

「必要なものが問題じゃない。必要なものは多くない、ほとんどない。
何が必要だっていうの。どうしようもない、ベントンの靴やグッチの上着にアイデンティティーを見る。ベントンの靴、グッチの上着、ヴンダーバーの自然化粧品、きれいに包装されて、私の人格は、ベントン、グッチ、ヴンダーバーで決まる、これが私。お金や製品に置き換えられる特性。遺伝的な特性よりも価値があって、このためにお金を使わざるを得ない、求めるならね」

「ひょっとしたらファンタジーのなかにはもっと何かがある、現実よりも。誰も話題にしてない。私たち何も知らない。これってとってもさびしい。みんなが何か黙ってる。でもひょっとしたら、これはファンタジーのなかだけのことで、現実ではもう誰も黙ってない、昔と違って。それともみんな黙ってる、白状したくないから、恥ずかしく思っているから。何もできないんだけどね。とにかく敗者ではいたくない」

「自分で自分をスクラップにしようかしら? いまの私って、差し引かれた人のひとりってわけ、お金がまた機能するように? 私は悪くないし、ほかの人たちだってそう。私たちはマーケットを信じてる。動揺しない。悪いのはお金。そこの人たちは他人の不幸を喜んでる、自分たちが正しかったからね。その人たちの関心は、正しいってことで、成功じゃない。みんな根本的に怠け者で、私たちが成長するはずがないって言ってる」

ラース: 「首脳部の人間に適しているかを見るテストで、ぜんぶ正しい答えにチェックした。友だち130人に送ったんだけど、みんなの答えはほとんど違った。だってたいていの人間は、完全に市民権が損なわれるか剥奪される条件で生きているんだからね。P村みたいだ。当然だけど、自己責任のある、集団的なかかわりのなかでいろいろとコミュニケーションをとる主体でいるには全然適していない」

サーシャ: 「主体は主体よ、でも自分で考えるってことを剥奪されてる」

劇評より

マルターラーが今回経済危機をテーマにした作品で浮かび上がらせたのは、ブルジョアの豊かな社会への巨大な後節だ。
Stefan Hilpold (Zürcher Tagesanzeiger紙)

音楽劇のもっとも重要なクリエーターであるクリストフ・マルターラーは自らの天才的な業績に新たな1作品を加えた。Rosenhügel映画スタジオで初演されたウイーン芸術週間の『巨大なるブッツバッハ村―ある永続のコロニー』はマルターラーとアンナ・フィーブロックの傑作のひとつである。
Ulrich Weinzierl (Die Welt紙)

「巨大なるブッツバッハ村」 に閉じ込められている人々には将来がない。だが、少なくとも自分の苦しみをユーモラスに心に響くように表現している。それはせめてもの慰めになる。
Gerhard Stadelmaier (Frankfurter Allgemeine Zeitung紙)

もしこの作品が何かのチャンスを与えられるとすれば、それは一時休止し、考えることだ。例えばマルターラーと共に考えることだ。
Barbara Villiger-Heilig (Neue Zürcher Zeitung紙)

ただ無意味なことをしでかす人間のおかしさや切なさや虚しさと、その背景にある社会や国家の歪みらしきものが、そこはかとなく伝わってくる。このためだけにウイーンに来て、ほんとうによかったと心から思えてしまう。
伊達なつめ (Hanako)