ヴァーサス

作品について

社会を痛烈に批判する作品で反響を巻き起こす挑発の天才

過激な舞台表現を用いて現代社会の不条理を痛烈にさらけ出す挑発的作品で世界のコンテンポラリー・シアター界を騒がし続けている異端の演出家、ロドリゴ・ガルシア。その実験的で"ガルシア的バロック"とも言える独自の演劇言語を駆使した作風は"爆弾"とも称され、アヴィニヨン演劇祭、シャウビューネ・ベルリン、ヴェニス・ビエンナーレ等、ヨーロッパを中心に屈指の劇場やフェスティバルとの共同製作作品を発表する度に"演劇界の異端児"という確固たる地位を轟かせている。2008年に発表された『ヴァーサス』は、演出家、劇作家、美術作家、映像作家、舞台美術家とガルシアの多彩な才能を照射しつつ、パフォーマーの身体を極限まで酷使し、観客に不快感さえも与える攻撃的な演出によって現代の消費社会を暴力的に批判する作品だ。我々の社会が抱える病巣をえぐり出す鬼才、ロドリゴ・ガルシアがついに日本に初上陸する!

他愛もない会話に端を切り、不条理に飛躍する

ガルシアの多くの作品と同様、他愛もない日常の会話から作品は始まる。本作では、ピザの食べ方をめぐる若者2人の会話。ヨーロッパの若者もアメリカの若者も宅配ピザは真中から正方形の一部を切って食べ、周りのピザは全て残してしまう。現代アメリカ人の肥満を中傷する発言も混じるこの会話は消費主義のメタファーともいえる。一転、ポストパンクバンド"チキータ&チャタラ"によるライブ演奏や神妙なフラメンコ歌謡が繰り広げられ、果ては性愛の衝動から"屈辱"と経済学をめぐる考察まで、舞台はさながら無秩序に展開していく。舞台には散乱する大量の本、垂れ流される映像、撒き散らされる牛乳、投げ出された剥き出しの身体、むさぼるように無残に扱われる数々の物質。それらの奥には実は、対抗する制度化された概念が潜んでいる―書物に象徴される理性、身体に象徴される理想的な躯体、豊かな物質社会―。時にポエティックで、時に残酷かつ切実に、アイロニーとユーモアが入り混じるガルシアの世界に、観客はあらゆる既成概念を遮断され価値観を揺らがされる。混沌めいた舞台の終焉には、そこに竜巻が過ぎ去った後のような光景を目の当たりにし、観客は、心的飽和状態に陥ってゆく―。

ありのままの現実を直視し、歪んだ社会を告発する共犯者となれ!

ブエノスアイレスに生まれ青年期までスラム街で過ごし、八百屋や肉屋、配達人、広告マンなど様々な職を経験したガルシアは、1986年にマドリードに移住、1989年に父親の正業にちなんだ名前のカンパニー"ラ・カルニセリア・テアトロ(「肉屋の演劇」)"を設立し本格的に舞台芸術の世界に突入する。以降、サミュエル・ベケットやフェルナンド・アラバル、ハイナー・ミュラー等からの影響に裏打ちされたガルシア演劇はマテリアリズムや消費主義に生きる人間の疎外感やグローバリズムの矛盾を過剰なまでに描写し、世界を挑発する。しかし一貫して、ガルシアは舞台上でもその外でも理屈を語らない。ただ観客の限界を試しながら我々の社会を抱えている問題を露呈し、問いかけ続けている。そして本作でも、観客を現代社会の不条理を告発する共犯者としてガルシア・ワールドに巻き込むのだ。
"演劇"の快楽を遮断しながら現代社会を表出させるロドリゴ・ガルシアの世界に、日本の観客はいよいよ遭遇することとなる。

劇評より

『ヴァーサス』 ブエノスアイレスのスラム街生まれのロドリゴ・ガルシアは現代の最も"トラッシュ"な演出家の地位にのぼりつめた。(...)衝撃作『After Sun』(2001)では、サラダ、ソーセージ、マヨネーズ、ケチャップなどキッチンの棚に入っているあらゆるものを体に浴びせ合う、あるカップルの歪曲した物語を展開。本作以降、舞台を戦場に変えるというガルシアの特色が定着した。
(les inrocks、2009年11月)

『ヴァーサス』は不可能たるものの儀式、大きな矛盾を帯びた強剛な力を様々な手段の頂点で融合させる果敢な行為である。(...)しかし、最後に残る感情は深い悲哀である。個人主義が支配する世界では、愛はその悲しい末路がみえているかのようだ。舞台上で1人、テニスに興じるパフォーマーがこの孤独を表象する。孤独の中で、まるで(劇中の)電子レンジの中に放置されたウサギのように、他者からの残酷な無関心を体験する。
(ル・トロワ・クー, 2009年11月22日)

寄稿

松井周

『ヴァーサス』という作品に挑発されてしまった。あの場所で何が起きていたのか気になってしょうがない。
舞台上では、ミルクとか電子レンジとかパスタ、フラメンコ歌手、アニメーション、ピザなどがぶつかり合って摩擦を起こし、何かが起きたのだと思う。でも何だろう?あのパフォーマーが醸し出す自慰行為の後のような倦怠感は。断片の間で摩擦は起きても着火せずに、また分散していくような構成。
ロドリゴ・ガルシアは数々のパフォーマンスを繰り出しながらも「ここでは何も起きない」と主張しているかのようだ。ここでは何も取り返しのつかないことは起きていない、と。
確かに観客は「ここでは何も起きない」という前提を共有するからこそ、劇場に足を運ぶ。ここではウソのことしか起こらない。ここでテロが起こることを事前に知りながら劇場に来る者はいないだろう。
彼が演劇の約束事や自明性を暴いているのは確かだが、それだけでもない。テキストの量は少なくないし、いくつかのパフォーマンスがもたらすイメージの結びつきにも「物語」の芽がある。つまり、彼は「何も起きない」場所からでも「物語」を語ることができると宣言しているようにも思える。いや、むしろ現代においては、そこからしか「物語」は始められないはずだという挑発に近い。そうして僕はまんまと挑発されて、今でもこの作品が気になってしょうがない。

松井 周 1972年東京生まれ。96年、俳優として劇団青年団に入団。俳優活動を続けながら戯曲を執筆し、日本劇作家協会新人戯曲賞の最終候補作に二度選ばれる。現在は自作を演出する劇団サンプルを立ち上げ、劇作・演出活動にも意欲的に取り組んでいる。08年『家族の肖像』は岸田國士戯曲賞最終候補に選ばれた。「フェスティバル/トーキョー09では、春にマリウス・フォン・マイエンブルグ作『火の顔』を演出し、秋には『あの人の世界』(岸田戯曲賞最終候補作)を作・演出した。ニューヨークタイムズにて「日本における最も重要な演出家の一人」と評されたり、戯曲『カロリーの消費』はフランス語に翻訳されるなど海外でも注目が集まる。10年9月には新作『聖地』が蜷川幸雄演出で上演され、新作『自慢の息子』も自身の手で演出される。09年よりセゾン文化財団より助成(ジュニアフェロー)を受ける。