独自の美意識をもって活動の幅を広げている気鋭の若手演出家ジゼル・ヴィエンヌの最新作『こうしておまえは消え去る(This is how you will disappear)』は、ヨーロッパと日本を股にかけ、創作に約1年間を費やした国際共同製作の作品。演劇、文学、音楽、ダンス、映像、美術など様々な表現を横断する本作品には、「ダムタイプ」の創立メンバーであるアーティスト高谷史郎と「霧の彫刻」で世界的に知られる中谷芙二子、アメリカのアンダーグラウンド作家デニス・クーパー等、各分野で際立った活躍をしている国際的なアーティスト達が参加している。ジセル・ヴィエンヌは2007年に関西日仏交流会館ヴィラ九条山の招聘芸術家として日本に5ヵ月間滞在し作品構想を膨らまし、2009年には横浜の急な坂スタジオにて10日間にわたり日本での滞在制作を行った。そして、今年7月にアヴィニョン演劇祭で世界初演された本作は、この秋、ジゼル・ヴィエンヌの日本初公演作品として、いよいよフェスティバル/トーキョーで上演される!
本作の舞台はハイパーリアルな森。舞台上に精緻に構築される深淵な木立ちの中、本作のコンセプトを表象する3人の登場人物が怪しい物語を展開する。
彼等は、社会における3つのアーキタイプをそれぞれ象徴する。完璧な外見と技術を持つ"体操選手"は、フリードリヒ・ニーチェの哲学思想における「アポロン的な美」を体現し、一方でまるでカート・コバーンを連想させる不安定で精神の崩壊した"ロックスター"は、「ディオニュソス的な美」を体現している。彼等は、現代文化における対極的な憧憬の存在を表すかのようだ。他方で、2人の関係に介在する第3の登場人物"コーチ"は、権威主義と秩序を象徴する。そして、一見すると清らかで健全な森は、登場人物の隠されていた内面性があらわになるにつれて、まるでロマン主義絵画の自然描写と同様、人間の精神状態を反映するかのごとく、次第に陰暗な場へと変容していく―。
黙々と身体を鍛え、技術を磨き、さらなる完璧と調和をめざす"体操選手"と"コーチ"。しかし、2人がトレーニングをしている時、森に迷い込んできた薬物中毒の"ロックスター"と出会ったことで、3者の関係が徐々にゆがみ始める。それまで、"コーチ"が抑圧してきた「"完璧"な存在を殺したい」という暴力的欲求が、"ロックスター"のあるマゾヒスティックな言葉に刺激され、ついには3人の関係は凄惨で衝撃的な行為に及ぶのだ―。
理性と衝動、欲望と抑圧、調和と無秩序、完璧と崩壊、生と死、幻想、倒錯―相反する様々な概念や混沌とした人間の本性が森に放散される。デニス・クーパーの退廃的なテキストが響くこの超審美的空間で起こるドラマを通して、観客は己の深層心理を震撼させられるに違いない。
さらに本作で注目すべきは、多岐にわたる分野の多国籍なアーティストとのコラボレーションによって実現した作品であることだ。
自作の等身大人形と生身の身体を共演させる演出で知られるジゼル・ヴィエンヌ。彼女の作品に通底する、若者文化や人間の暗部を現出させる表現は、2004年以降、ジゼル・ヴィエンヌ作品のコラボレーション・アーティストでもあるデニス・クーパーの世界観と互いに共鳴し続けている。同性愛や猟奇的な事件等をモチーフにした独特の筆致でカルト的な人気を誇るクーパーの本作のために書き下ろしテキストは、時には登場人物の半ば分裂したような内なる声を代弁し、時に狂気を帯びた心象を表す朗読が深い森の闇に響き渡る。高谷史郎の映像とパトリック・リユの照明インスタレーション、中谷芙二子の霧の彫刻は、舞台上の森の変容を精緻に描き出し、さらに電子音楽・ノイズシーンの鬼才スティーヴン・オマリーとピーター・レーバーグによる音楽によって、言葉では表現不可能な登場人物の内面の調和と葛藤が増幅される。各分野の第一線で活躍するアーティストが集結し、それぞれの類稀な美意識が見事なまでにパワフルな科学反応を起こしている本作は、コンテンポラリーアートの先鋒に遭遇する機会として、必見の価値がある。
フランス国立高等人形劇芸術学校を卒業し、精巧な人形製作のスキルを持つジゼル・ヴィエンヌ。パペット人形による『ジャーク』を除く彼女の全ての作品では、等身大の人形が生身の人間と舞台上で共存する。彼女の作る人形はデニス・クーパー作品に登場する美しい若者を彷彿とさせる艶かしい人形が多い。多くの観客は、人形だと知っているのにも関わらず、そのあまりに生々しい姿態に錯覚を起こすように惑わさせられる。本作でも3人の登場人物のほかに、数体の人形が出現し、独特の世界を構築する。
演出ノート
ジゼル・ヴィエンヌ
これまでの作品では相反する美的問題を探求してきたが、今回は1つの作品の中にこれらの両極を同居させたいと感じた。その出発点は「秩序と崩壊(破滅)から生まれる美」。アポロン的な美とディオニュソス的な美の観点を通して、正反対でありながら分離できない複数の美の在りようを考察したいと思う。この考察こそが、相反する原理を内包するものとして、ニーチェの「悲劇の誕生」に繋がるはずだ。出来事は自然主義的な森の中で行われる。リアルなものからシンボリックなものへと変化するこの森には、スピリチュアルな体験を追求している3人のキャラクターが登場する。そこでは、風景そのものが登場人物の心理を体現するような主体的な役割を果たす。秩序と自然のエネルギーに結びついた美は、やがてカオスに向かって崩壊してゆく。この変容は、人間の文明と残虐性の2分列について問いかけながら、ある特定の登場人物を映し出すことで加速する。それによって、これらの美的体験によって、私達人間の欲望と嫌悪感がその感覚と思想を活性させ、永遠なる精神的な問題を提起するのだ。
劇評より
人形作家でもある若手アーティストジゼル・ヴィエンヌが死、性と暴力をめぐる作品を手掛ける。幻想と現実の間の恐怖の世界。 (テレラマ、2007年11月7日)
『Kindertotenlieder (亡き子をしのぶ歌)』 『I Apologize』(2004)、と『Une belle enfant blonde』(2005)と同様に、この悲劇的な人形のコーラスは人形とヒトの差異を揺るがす。-前世紀の表象演劇以上に、ジゼル・ヴィエンヌは"ヴィジョン"の演劇を形成する。 (アートプレス、2008年3月)
『ジャーク』 振付家ジゼル・ヴィエンヌの演出による『ジャーク』でのジョナタン・カプドゥヴィエルの演技にはまさに圧倒させられる。―倫理的な距離間と残虐性を行き来しながら、声色の使い分けと巧妙な人形遣いによって、音と感情の不穏なミルフィーユを蓄積していく。この驚くべきマルチ操縦者ジョナタン・カプドゥヴィエルは、まるで無作為に精神分裂状態を現象化する。 (ル・モンド紙、2008年3月22日)
『こうしておまえは消え去る』 パトリック・リユが手掛けたキアロスクーロ(明暗法)的な美しい照明がまるで無声映画のように展開していく。この暗く魅惑的な演劇―インスタレーションは自分の内面にある不可解な謎への降下である。観客が認識していない無意識下に揺さぶりをかける、精神分析的演劇である。 (テレラマ、2010年7月14日)
劇中の様々なシーンの狭間で中谷芙二子の霧の彫刻による幻想的な瞬間が刻まれる。まるで個々の無意識の谷を隔絶し包囲するように、霧が舞台や客席を侵食する。 (ル・モンド紙、2010年7月13日)
『こうしておまえは消え去る』で、ジゼル・ヴィエンヌは、卓越した芸術作品でありながら、極めて陰鬱で不穏な舞台を提示する。 (ラ・クロワ紙、2010年7月15日)
ハイパーリアルな舞台では、土も枝葉も木の幹さえも生と死の制御不可能な欲望を体現しているかのようだ。 (テレラマ紙、2010年7月21日)