――ところでアルトーさん、アーカイブ

アルトーのことが好きだ。どこか絶対的な好意を寄せうるものとして私の中に君臨している。しかし、「何故アルトーが好きなのか」、と答われると困ってしまう―答えは「わからない」だからだ。

現代において「アルトーをやる」意義はどこにあるだろうか。有名な「残酷劇」というテーゼを中心とするいくつかの演劇論は、ポスト・ドラマ演劇を強調する今日のパラダイムに都合の良いものの様に思われる。あるいは暴力的な主題の選択。あるいは身体の力の強調。しかし、近年少しずつ見られる様になったアルトーを用いた演劇は、往々にして反アルトー的である様に思われる。アルトーは、演出家の戦略に落としこまれてはならないのである。というより、「アルトーを使おう」とすればするほど離れていってしまうのがアルトーだということができるだろう。では、今日アルトーを読むということが哲学以外でありうるだろうか。残されたテクストから、彼の強烈な思考と身体を経験/直観すること以外に何であるだろうか。

演劇を見る際に、どの程度事前の情報が必要か。今回の舞台の創り手の意図はどこにあるのか。見る人の経歴はさまざまであるが、創り手はどこに焦点をあてているか。万人向けとしたいのか、一部の人にわかってもらえればよしとするのか。今回、私はアルトーという人物に惹かれる一観客としての経験を述べたい。そうすることが演劇を広く深く理解すること、つまり演劇を楽しむことにつながることと思う。