ディレクターよりメッセージ 市村 作知雄
境界を越えて、新しい人へ
F/T14から「境界」をテーマに掲げてきた。F/T14は「境界線上で遊ぶ」、F/T15は「融解する境界」そして今回は「境界を越えて、新しい人へ」で、これで境界シリーズは最後となる。
もちろん、「新しい人へ」が最大のテーマだし、希望でもある。
1989年秋ベルリンの壁が崩壊し、冷戦の構造は終わりを遂げ、核戦争の脅威は薄まり、世界の主要な対立構造は消え、新しい世界が希望をもって生まれる、と思われてから、27年の歳月が過ぎようとしている。しかし誰が《今の》このような世界の壊れ方を想像できただろうか。病理のもとは、先進国自身にあり、その最大の問題が、先進国の若者たちに集約されている、と思う。というのも、もはや先進国の若者全体に社会的地位、十分にやりがいのある仕事を供給するだけの社会的ボリュームは存在しない。先進国にとって、今必要とされる物資を生産・流通させるのに必要な労働力と実際の労働力との均衡が破れてしまっているので、だから、社会に自分の居場所はもう存在しないと、実感する若者が大量に存在してしまうのは必然である。また、それは個々の若者自身で解決できない問題であり、その中のわずか0.1%にも満たない若者が、社会を道連れに自死してしまいたいという道筋を選んだとしても、社会の景色を根底から変えてしまうには十分だろう。そのような景色を作り出してしまった古い体制を終わらせてくれる可能性を「新しい人」に期待している。
世代という考え方を無自覚に受け入れるには大きな抵抗があるとしても、現実にはある境界層を境に大きな価値観の差があると感じられる。それは、共通の体験と非体験から生まれる必然的な違いだと思われるが、今回は、この「新しい人」と名付けた世代を定義してみたいと思った。その定義は、三つの共通の体験・非体験と、それに付随するいくつかの特徴によって構成される。
一つ目は、自分の両親、あるいはもしかしたら祖父母であろうとも、もはや第二次世界大戦を体験していない世代である。そのような世代にとって戦争はほとんど見えなくなっていると同時に、戦後にも残っていたアジアへの差別意識、あるいは優越感もほとんど消えている。二つ目は、ベルリンの壁が崩壊し、社会主義圏が消滅したときに、まだ生まれていないか、もの心がついていない世代。それまで、世界を対立構造の中で見ることに慣れていた古い世代に対して、新しい人にとって世界はそのような対立の中にはない。三つ目は、その新しい世代の人にとって、インターネットを中心とする情報テクノロジーがもうもの心ついた時にはすでに身近に存在し、自分の身体の一部のように扱うことに慣れている。世界からの情報の取り方が、テレビのニュースや新聞・雑誌から取る古い世代とは明らかにちがってきている。そのような特徴を持つ新しい人に、世界はどのように見えているのか。対立構造で世界が見えないのであれば、どのように見ることができるのか。それが大きな課題である。私が見ている世界と、その新しい人が見ている世界の違いとは何か、F/T14からの「アジアシリーズ」をやろうとした第一の目的はそれである。というのも、これらの事柄はアジアのほとんどの国、地域の若い世代に共通して当てはまることで、このように定義される世代間国際交流が、いつか世界に大きな影響をあたえるだけのパワーを持つならば、交流の質を変えていくだろう。私では、想像のできなかった交流が生まれるはずだ。
つまり、そのような新しい人は、急速に人口の大きな部分を占めてきてはいるが、まだ社会的なパワー(権力)からも遠く、重要なポストも得てはいない。したがって、まだ見えにくい世代、しっかりと見ようと思わなければ見えない世代である。とはいえ、今後20年の間に確実にそのような世代が地位を得ていくのである。今からそれを想定することはとても大切なことである。
F/T16でのアジアシリーズではマレーシアを特集する。その計画中に世界で大きな出来事がおきた。言うまでもなく「難民」に関してである。この問題を無視しては、国際的なフェスティバルを組むことができない。それが多様性の失敗、多民族国家の失敗を意味するのか、EUという共同体の失敗を意味するのかは、もう少し未来での結論になるのだろうが、そう簡単に失敗してくれては困る。日本はほとんど難民を受け入れていないが、難民を多数受け入れた時の社会を想像してみることは重要である。文化は混ざり合い、何世代か後には混血しあい、古い政治的指導者はそれを嫌うだろうが、しかし遅かれ早かれ、難民という形態を取ろうがとるまいが、世界との交流が盛んになればなるほどそれは避けられない。どうであれ、まだ起きていないことを想像することは、アートにとってとても大切なことである。日本の新しい演劇をリードする岡田利規氏の最近の作品のテーマも、まさに「想像すること」であると聞いた。
さて、マレーシアの特集を作る中で気づいたことがいくつかあった。それは誤解を恐れずにいうならば、「多民族」とか「多様性」とかいう概念自体が、実際は古い世代を特徴づける用語なのかもしれない、ということである。多民族や多様性を尊重しろ、という時、はっきりした民族性の存在や他とは差異のある多様性の存在を前提としているのだが、例えば日系三世のアメリカ人やブラジル人を想像してみればいい。これが今後四世、五世となっていけばますます日系の部分は消えていく。もはや中国には帰ることもないマレーシアのチャイニーズ三世たちは、いつまでチャイニーズでありつづけるのだろうか。まだふるさととして中国を感じることのできた親たちの世代とは、明らかに世界の見え方がちかっているのだろう。そこでは大きなパラダイムシフトが起きている。マレーだ、チャイニーズだという境界はゆっくりと、ときに急激に「新しい人」の間で消えていくに違いない。
F/T16のアジアシリーズではそのような性格を持つ作品を紹介できればいいと考えているが、やはり簡単なことではないので、きっと何年もかけてやりつづけることになる。
祭りには、気の遠くなるような長い準備があって、突然はじまり、一瞬のまたたきの内に終わっていく。それは蝉の一生にも似て、飛び立つ前の長い準備の間にこそ、本当の姿があるのかもしれない。オリンピック・パラリンピックの選手たちも長いトレーニングにこそ本当の姿があって、始まれば、もう結果を待つだけであろう。スポーツ選手たちも、ぜひもっとアートに触れて欲しいものだ。きっと共通する何かを見つけて、互いを発見しあうことができるはずである。我々もまた、スポーツに触れていこう。
オリンピック・パラリンピックには、文化=芸術が必要である。それは人間が生きて行くことから生まれる必然のようなもので、身体も感情も頭脳も分けることができないで生きているのだから。文武両道とはよく言ったものだ。
今年から、F/Tには東京芸術祭という冠がかぶっている。まだ生まれたばかりで、どこへ向かうかもよく見えないけれど、大きく化けるものは、最初はよく見えないものだ。F/Tだってどこまで見えているのか、ときかれても、ほとんど見えていない。見えていないものばかりを集めてこそ、大胆に進んでいくことが可能になるのだと、涼しい顔をしているのが、一種ディレクターという職能の本質かもしれない。
今回からフェスティバル/トーキョー実行委員長を福地茂雄氏に引き受けていただいた。光栄の限りである。また実行委員の方々にも温かく見守っていただいているが、これからが正念場となるだろう。地図をつくる作業は、楽しいものだ。多くの参加者とともに地図をつくろう。